南青山のO先生のお招きの茶事の続きですが、いよいよ席入りのということになり、額見石から見上げると、茶室の軒の丸い扁額は「貧窟」と、読めます。

 この茶室は、先生の御祖父が、終戦直後の焼け野原の時代に、コツコツと材料を集め、苦心して建築されたものです。前の住所から移転される際に、この茶室を廃棄するか、O先生も悩まれたそうですが、この茶室を見に来られた中村昌生博士(前にこのブログでも取り上げましたが、茶室建築の権威で、2018年に亡くなられました)が、「これは名茶室だ、この文化財をなくしてはいけない」と、強く勧められたので、O先生も決心し、京都の数奇屋大工専門店に依頼し、莫大な手間と費用をかけて移築されたそうです。実際、他に例を見ないような、極小の侘び席で、無駄なものを全て削ぎ落としたとも言える茶室です。全体の広さは一畳台目で、裏千家の今日庵や宗徧流の四方庵と同じ大きさですが、これらは台目畳の先に、向板が入っているので、実際の大きさは二畳分なのですが、貧窟は、それがないので、もっと狭いのです。中柱もないのは四方庵と同じですが、大きく違うのは、逆勝手(流儀によっては非勝手とも言いますが)、つまり亭主の左側に客が座る形であることです。そして、点前座の台目の半畳分だけは畳ですが、四分の一畳分は板にし、そこへ向切の位置に、丸炉を切ってあるのです。鉄の丸炉は、本来は水屋用のもので、替え釜や、懐石を温めるために、古い水屋などでは設けてある例がありますが、本席に使っている例を私は他に知りません(変形炉として、長炉は見たことがありますが)。床は、客座奥が、壁床になっていて、点前座との境に一本、半円の柱を立てて、そこに花釘を打ってあります。天井は、壁床前を三尺弱くらいの落ち天井(葦でしょうか)にして、それ以外は、全部、躙口側に向かっての緩やかな掛け込み天井になっています。窓は、躙口の上に、下地窓、その上に更に小窓があり、客座の背後に、大きめな下地窓、風炉先に小さい風炉先窓、点前座の後ろ、花釘窓と並んで、もう一つ窓があり、計五つの窓があります。天窓(突上げ窓)がありませんが、客座の後ろ窓が、それなりに大きいので、狭くてもあまり暗い感じはしません。壁の色は青黒い鼠色で、茶道口は火灯口になっています。点前座勝手付きの壁には、茶入の仕服を下げるために釘が打たれています。そして、丸炉の切ってある板の先から躙口側に向けて、鱗板(三角形の板)が入れてあります。この鱗板一枚の工夫で、躙口から入った時、席全体が窮屈でなく感じられるのだと悟りました。中村博士は、創意に満ちた独特な席と評価されたそうですが、なるほど、違いありません。座っていて、落ち着いた伸びやかな温かみを感じられるのです。東京には、都の文化財になっている三席をはじめ、護国寺、根津や畠山など、名茶室は数ありますが、貧窟も、それらに劣らぬ名茶室と思います。拙い説明で、皆様、想像も出来かねるでしょうが、拙い平面図を添えておきます。

 

 続きは次回に。

    萍亭主