大徳寺の管長さんも、戦後の人となれば、大抵の方が、ご存知ではないでしょうか。なにしろ東美の正札市にでも行けば、必ず軸の二本や三本、ぶら下がっていますから。
戦後の最初の管長は、第九代で、瑞巌宗碩(ずいがんそうせき)です。俗姓後藤、雅号は蔭涼軒(おんりょうけん)といいました。妙心寺派の管長を務めた後。大徳寺派の管長になったという異色の経歴で、権威ある学僧として評判の高い人でした。鵬雲斎大宗匠の参禅得度の師として知られます。昭和26年に辞任して、竜安寺に隠棲し、昭和40年に亡くなりました。太くきっちりした四角い感じの書体の軸が多数残され、茶杓も作っています。
第十代管長が歓渓紹忻(かんけいじょうきん)で、塔頭龍源院の住職で、俗姓森山、号は清涼軒です。在任中の昭和30年に歿しました。やや細い優美な感じの筆跡ですが、遺墨の数は、瑞巌より、やや少ないような気がします。
第十一代管長は、雪窓宗甫(せっそうそうほ)で、俗姓小田、号は蔵暉室(ぞうきしつ)です。瑞巌の法嗣で、龍翔寺住職、僧堂の師家を務めた後、管長となり在任12年目の昭和41年に亡くなりました。流麗な筆跡で、この人の軸のファンが多いと昔聞いたことがあります。
第十二代管長が、浩明宗然(こうめいそうねん)です。俗姓方谷、桃源室と号しました。博多の崇福寺の住職から、管長に選ばれ、昭和54年まで在任、辞任後は九州に隠居し、16年後の平成7年歿しました。表千家家而妙斎の参禅の師で、その号を与えています。ここまでの四人の管長さんの軸は、本当に多く、茶杓もよく見かけるのですが、どうもこれは、本人が書くのが好きだったわけではなく、境内の整備か、派内寺院の復興とか、寺の重要な行事(遠忌とか)が多くあった時期で、需要も多く、商売として軸を書かざるを得なかった状況の時代だったのではと憶測するのですが。
第十三代管長は、猷山祖順(ゆうざんそじゅん)で、俗姓中村、号は看雲室(かんうんしつ)安土総見寺住職から大徳寺の師家を経て管長に就任、昭和58年に亡くなるという短い在任でした。裏千家坐忘斎の参禅の師として知られます。この人から、軸の数は、大分減ってきているように感じます。
第十四代は、雪底宗潭(せっていそうたん)で、俗姓福富、号は似無愁室じ(むしゅうしつ)後に似庵(じあん)と名乗りました。東京上野の広徳寺の住職で、就任後、平成15年に引退するまで、20年間在任、引退後3年の平成18年に亡くなりました。表千家猶香斎の参禅の師であり、隠居した鵬雲斎に道号「汎叟」を授けています。独特の書風の軸がありますが、そんなに数が多いとも思えません。雪底和尚の在任は長かったように思いましたが、考えてみれば、跡を継ぎ第十五代みなった明浦宗哲(みょうほそうてつ)、俗姓高田、号は嶺雲室(れいうんしつ)は、今年でその記録を超えたわけですが、私はこの方の軸は、茶席では二回見ただけ(茶会に行く数が減ったせいもあるかもですが)、まだ古道具屋に並ぶほど出回ってもいないようです。
私が茶の湯に首を突っ込んだ頃の管長は浩明和尚で、茶道具屋にある、その軸(新品)の値段の高さにビックリしたものですが、今、正札市やネットでは随分安価になっているようです。時間がまだ足りず骨董にならないのか、数が多すぎるのか、この辺、江戸前期の大徳寺僧侶の軸の価値の下がり方と違い、今は現役でないと評価されないところがあるのでしょうか。管長にはなりませんでしたが第三百十一世住持だった立花大亀和尚は、勢力もあり、有名でもあり、その軸は在生中は数が多く、もてはやされていましたが、今は大分様変わりしているように思えます。同様、住持に列した中村戒仙(高安、聚光院、井口海仙の参禅の師)、上田義山(高桐院)、藤井誡堂(三玄院)など、ご存じの人々の遺墨も同様の状態でしょう。他にも、大徳寺の僧侶ではありませんが、妙心寺派管長も務めた山田無文和尚は、著書も多く、信奉者も多く、名僧として人気があり、丸っこい独特な字を、当時の茶会でもよく見受けたものですが、今はあまり見かけません。長い歴史を超えてゆくのは、なかなか大変なことなのでしょう。
さて、墨跡から始まって、大徳寺僧侶の点検に長々とかかりましたが、この辺で一段落として、私は、今週はこれから終活茶事の第四弾をするつもりなので、その準備にも追われるので、しばらくブログを休むことにします。
萍亭主