大徳寺僧侶の軸の評価も、近代の人のものは、管長さん中心になるようです。 

 大徳寺も、明治になると様変わりします。住持が朝廷から任命される伝統もなくなり、宗教法人として、大徳寺系の寺全部を統括する大徳寺派管長職が置かれて、これが最高位と見られるようになります。管長は勿論住持に列しますが、住持になっても管長にならない、塔頭の住職兼任で終わる人もいれば、塔頭の和尚だけで終わって、住持の称号を貰えない人もいる。同じ塔頭でも、大徳寺の境内にある院内塔頭と地方の塔頭では格が違うんだそうです。どうも、軸のお値段も、この序列に従って高低が決まると言えます。管長さんの軸は一時は、家元の軸よりちょっと安いくらいの値がついていたものです。ただし時が経ち、名前が忘れられて来て、古道具化してくるとどんどん安値になるという現象もあるようですが。

 さて、その管長さんですが、明治5年就任の初代から、明治後期の四代までは、二代を除き、まず茶掛というものが残っておらず、衰退期でもあり、茶の湯と没交渉だったのでしょう。従って、茶の湯の世界では全く名を覚えられていません。二代の牧宗宗寿(ぼくしゅうそうじゅ)は、僅かに軸を残し、削った茶杓も存在するようです。牧宗は但馬の人で、明治7年に管長になりました。茶の湯に趣味はあったのでしょう、明治11年に当時の三千家の家元(碌々斎、又玅斎、一指斎)を招き、大徳寺の古材で共同で棚を好ませました。これが今も三千家で共通して使われる棚、三友棚です。牧宗は宗徧流家元とも交際があったと伝えます。

 五代管長の宗般玄芳(そうはんげんぽう)から、また、茶掛が見られるようになり、茶杓は見かけませんが、箱書された茶器も見かけます。宗般は熊本見性寺、八幡円福寺を経て明治41年、大徳寺派管長になりました。茶の湯の復興期でもあります。宗般は大兵肥満で、おおらかな体裁に無頓着な人で、乞食宗般、ボケ般などのあだ名があったそうですが、大正天皇の即位式に招かれ上京した時、あまりの汚い格好を怪しまれて、警察に留置されたという逸話があります。雅号を松雲室(しょううんしつ)といい、この署名の軸も多くあります。枯れた感じの書体の軸は、今は、それほど高価ではないようです。大正11年に歿しました。

 六代管長が、伝衣室(でんねしつ)の雅号から「でんねさん」と親しみと敬意をもって呼ばれた全提要宗(ぜんていようじゅう)です。俗姓を円山といい、岡山県福山市鞆の浦出身で、岡山の曹源寺の住職になり、当地の速水流の茶の湯に親しんだといいます。大正8年、大徳寺に入り、裏千家の円能斎と親交を結び、子息淡々斎の得度の師になり、無限斎の号を与えました。ついでですが、淡々斎は雅号で、正式名は、あまり使われませんがこちらの方です。伝衣は大正13年に管長となり、僧堂龍翔寺を復興し、大徳寺と茶の湯の関係が旧に復するよう努力するなど、名僧と言われ、茶掛、茶杓、好みの茶器などを多く残し、戦後も昭和50年代頃までは、その名声は落ちずに続いたように思いますが、現在は知らぬ人も出てきて、少し下がり気味でしょうか。伝衣は昭和8年に引退し、昭和15年に亡くなりました。

 第七代管長は、寛慶紹珉(かんけいじょうみん)ですが、選ばれた直後、実際の就任前の

昭和9年に病死し、その遺墨も非常に少なく、私も一度しか見たことがありません。

 第八代管長が、晦巌常正(まいがんじょうしょう)で、俗姓太田、東海寺の住職を経て、大徳寺住持になり、その後、円覚寺派の管長となり、昭和10年大徳寺派管長に迎えられました。なお、明治以降は、臨済宗内で派を移動するのは、珍しいことではあありません。大梅窟(だいばいくつ)という雅号の署名もある、この人の軸も、それなりの数が残されていますが、今は、かなり安値のようです。この人が昭和21年に亡くなり、戦後を迎えるわけですが、続きは次回に。

   萍亭主