大徳寺と千家や藪内家の関係は、江戸時代を通じ現在まで、延々と繋がっています。

 時代や個人により、参禅の状態や交際は、深い浅いはあるでしょうが、〇〇斎というような斎号や、仙叟とか竺叟とかいった道号は、ほぼ大徳寺から貰いますし、先祖の年忌には、画像に偈を書いてもらうなどする、重要な茶会には列席してもらうなど、関係は途切れません。いわば持ちつ持たれつの間柄でしょうか。堺衆茶人の時代から、茶の湯者は大徳寺の有力スポンサーだったわけで、宗旦などは逆に大徳寺側が後援者だったかと思われますが、大名茶人とともに、茶の湯興隆期の千家も大徳寺には大切だったろうと思われます。そういう仲ですから、記録としては、例えば裏千家の祖に仙叟の道号を与えた二百十五世伝心宗的(でんしんそうてき)とか、山田宗徧と親しく、その著書「茶道便蒙抄」の序文を書いた二百十四世祥山応瑞(しょうざんおうずい)とか名前は出て来ますし、他にも茶の湯世界に関わったと見られる坊さんの名前はいろいろありますが、その人たちの軸が茶席に現れるわけでもありません。玉舟など以降、しばらくそういう状態で、次の世代で軸をかなり多く残しているのは、大心義統(だいしんごとう)でしょうか。八代将軍吉宗の時代の人で、千家の茶を大きく変えたと言われる覚々斎原叟の参禅の師です。清巌の法統で、大徳二百七十三世のなりました。「遺墨が少なからず残る」と、辞典にも書かれるように、軸は割と目にすることがある筈です。

 覚々斎の息子、表千家如心斎と裏千家の一燈の兄弟が参禅したのが、三百四十一世大龍宗丈(だいりゅうそうじょう)です。如心斎に天然の号を与え、江戸千家の祖に「孤峯不白」の号を与えたのは有名ですし、茶の湯に通じていて、如心斎たちが七事式を作る計画に参加したと言われます。軸の残っている数は大心ほどではないようですが。

 七事式の創設に参画した僧侶には三百七十八世無学宗衍(むがくそうえん)がいます。禅宗の碧巌録から引用して七事式の命名に関わり、指導したということで、何かとよく出る名前で、大龍よりポピュラーかもしれません。表千家啐啄斎に件翁の号を授けるなどもしています。残されている軸も大龍より多いでしょう。(もっとも大龍は大徳寺の住持には珍しく五十代で亡くなっている短命でした)

 七事式の創設に参加した川上不白と親しかった僧に、三百七十世萬輝宗旭(ばんきそうきょく)がいます。東海寺に輪番住職の時、不白と図り、利休供養塔を建てるなどしています。この人の軸は、案外多く見かけます。私も茶会でも何度か遭遇しました。

 やや前の時代の人ですが、独特な僧に怡溪宗悦(いけいそうえつ)があります。大徳寺二百五十三世であり、東海寺内に高源院を開くなど僧としての活動もちゃんとしていますが、一方余程の茶の湯好きであったのでしょう、片桐石州について学び、皆伝を得て、一流の宗匠としても活動しました。石州の茶の湯は、この人と藤林宗源(石州の家老)の二人によって伝えられ、怡溪派は、門人で江戸城数奇屋坊主の伊佐幸琢など、いくつかに分かれて伝えられ、伊佐派から松平不昧が出ています。今でも京都には石州流怡溪派を名乗る流派があります。怡溪の軸は勿論残されていますが、石州流の雰囲気が強いせいか、千家系など他流では、あまり使われていないようです。

   萍亭主