大徳寺僧の中で、一般に知名度の高いのは、一休と沢庵でしょうが、茶の湯の世界で、これと並んでよく知られているのは、清巌宗渭(せいがんそうい)じゃないでしょうか。江月や玉室よりもポピュラーだと思われます。

 なんてったて、裏千家系では、今日庵の命名の由来になった軸の筆者として必ず教えられますし、表千家や武者小路千家にとっても、先祖宗旦の参禅の師として大切な人ですから。大徳寺僧侶の軸が人気があると言っても、誰でも歓迎されるわけじゃなく、そこは知名度も必要です。生きている間とか、時代が近い内は、うちのお師匠様の参禅の師だからとか、実際に説法を聞くとか、評判を伝え聞いて、偉いお坊さんのようだ、その方の書かれた書だから有難いんだろうとなりますが、時代が経ち、全く知らない人だと、字句が季節に合っているからというようなメリットがないと使いにくいものです。流通している、つまり大方の人の聞いたことのある名前だと客の方も反応しやすいし、亭主も楽という面がある、茶の湯と関わりがあった人だというだけでは弱くて、何かの事績とか逸話とか知名度がある程度いる。さて、清巌はその点、大丈夫なわけで、宗旦との縁で、千家流では特に貴重視されました。宗旦は大勢の僧に参禅し、その交遊は、全方位といっても良いほど僧侶の知己が多いのですが、最も長く、深く親しく学んだのは清巌でした。清巌は、近江(滋賀県)の生まれで、子供の頃、大徳寺の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)について出家し、師の死後、その法嗣の賢谷宗良(けんこくそうりょう)の下で嗣法しました。古渓宗陳の曾孫弟子に当たるわけです。大徳寺百七十世に任じられ、塔頭高桐院(細川三斎が建立した細川家の菩提寺)を本拠にし、墓もここにあります。今更の話ですが、今日庵の命名の根拠となった話、清巌が約束の時間に来宅しないので「明日また来てくれ」と言い残し外出した宗旦の留守に来た清巌が「懈怠比丘不期明日」と書き、それを見て宗旦は悟り、今日庵の命名に到ったという、その墨跡は、大正時代には住友家にあり、それと同じものかどうか確認していませんが、現在、裏千家にもあります。ある人の話では、どうもいくつかあって、横物でなく、縦一行もあるらしい。もっとも、この話自体がフィクションで、宗旦が茶室の庵号を依頼し、今日庵と命名したので、わけを尋ねたら、この語を書き与えたのだという説もあります。清巌の軸は、千家系だけでなく、近代数寄者にも好まれました。数寄者には、遠州とは違う意味で宗旦のファンも多く、そのつながりのせいか、清巌の軸は茶会でよく用いられています。今でも、清巌の軸は、美術商で見ることもあり、私は茶会でも何度か拝見していますが、云々出来るほどの知識は持ち合わせません。清巌自身も茶の湯に堪能だったと言われ、その著と言われる「清巌禅師十八ヶ条」という茶事の掟に関する書は、江戸時代流布していますが、私は、これは偽書だろうと思っています。

 清巌は寛文元年(1658)に逝去しました。宗旦の死より三年遅く、七十四歳でした。

   萍亭主