沢庵、江月と並び称されますが、茶の湯の世界では、やや地味な感じがあるのは、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)でしょうか。

 京都の生まれで、俗縁に繋がるという春屋を頼って大徳寺に入ります。春屋の一番の弟子と呼ばれるほど優れており、30代で大徳寺の百四十七世住持に任じられました。大河ドラマ「利家とまつ」の主人公まつが、前田家の菩提寺として建立した、芳春院の開山になりました。この寺の独特な楼閣(呑湖閣)や、それにかかる橋、池水庭園は、現在のものは再建ですけれど、玉室和尚の遺風を伝えているとされます。寛永6年、紫衣事件の首謀者として、陸奥棚倉に流罪になりますが、沢庵と同時に許され、その後は、江戸、京都で大徳寺の復興に尽しました。多くの文化人、茶人と交遊したことは沢庵や江月と同じですが、千宗旦と親しく、宗旦の息子の就職運動の世話をして感謝されています。また、片桐石州は、知恩院の修繕奉行として京都に勤務していた間、晩年の玉室について参禅し、三叔宗関lの号を与えられました。玉室の軸は、私は一度だけ茶会で「八角魔盤空裏走」という横物を拝見したことがあり、その堂々とした筆勢に圧倒されたのを覚えていますが、沢庵、江月と違い、市場では見受けた機会がグッと減ります。何故か近代数寄者の茶会でも、玉室の軸は使われた形跡がどうもありません。元々数が少ないのか、茶の湯に向いていないとも思えませんし、遠州との関係が他の二人ほど深くなくても良好な関係ですし、僧侶としての実績や格が劣るわけでもなし、私には謎です。

 片桐石州は、玉室の歿後は、その法嗣で、大徳寺百八十五世の玉舟宗ばん[王➕番]に参禅、帰依しました。芳春院の隣に、塔頭高林庵を創り、玉舟を開山に迎えました。その後、領地の大和小泉に慈光院を建て、玉舟を開山としました。高林庵は明治に廃寺になりましたが、その名前は慈光院内の茶室として残っています。玉舟は、石州だけでなく、宗旦とも親交があり、次男で武者小路千家の祖となった一翁に、宗守の名前を与え、三男で表千家の祖宗左に江岑の号を与え、また、紀州家の仕官を斡旋するなどしました。明治まで続いた紀州家と表千家の繋がりは、玉舟の尽力が基であったと言えます。玉舟は、宗旦に芳春院に茶室を作らせて、そこで自身で茶会を催すなど、茶の湯好きでした。玉舟の軸は、柔らかな感じの一行物など、以前は、玉室よりは、茶会や道具市で見たような記憶がありますが、近年は何故かさっぱりお目にかかりません。個人的な縁でしょうか。

 玉舟の法嗣に、大徳寺二百十一世の一渓宗什(いっけいそうじゅう)があります。一渓は、江岑の子に、随流斎の号を与えたことで、表千家では知られた名前のようですが、

ただ、この人の軸は、図録などでも、私は見たことがありません。

 玉室の法嗣で、玉舟の兄弟弟子に、大徳寺百九十世の天室宗竺があります。宗旦がら、一行物を書いて欲しいという依頼があったという記録があるそうで、実際、この人の書いた一行物を、昔、少し見た記憶がありますが、筆者の名前を覚えているだけで、内容はサッパリです。図録を見ると、骨太な字のようですが、やはり流通量は、そう多くはないのでしょうか。ということは、これらの人の贋物はないということになりそうですが、そう思っては危ないというのが、茶道具、茶掛の世界ではあります。

   萍亭主