大徳寺僧の中で、一休と共にポピュラーなのは、沢庵宗彭(たくあんそうほう)でしょう。

 沢庵が有名なのは、沢庵漬けの発明者ということと、吉川英治のベストセラー「宮本武蔵」で武蔵の心の師として活躍するからでしょうか。「宮本武蔵」の方は、全くのフィクションですし、漬物の方も、そうではないという異説もあります。しかし、生前の名利を求めず、権威に屈しない、波乱に富んだ生き方や、徳川家光に尊崇され、柳生宗矩に剣禅一致を教えたというような種々の逸話や、機智に溢れた禅風などで、生前から人気がありました。但馬(京都府)に生まれ、地元の出石の宗鏡寺で出家、後にこの寺の住持にもなり、この寺は沢庵寺の愛称を持っています。京都に上り、大徳寺に入り、春屋宗園に学びました。ただ、法の印可は、一凍紹滴に受けたので、正式には前述の江月や玉室とは兄弟弟子ではありません(古嶽の孫弟子という点では同門です)。大徳寺の百五十三世に任じられますが、三日で辞任し、その後は南宗寺の復興などに尽くします。前述の紫衣事件で流罪になりますが、三年後に許され、将軍家光から江戸に招聘され、断りますが結局は承諾し、側に仕えます。教学の面だけでなく、政治上の助言もしたと言われますが、栄達を求めたわけではなく、家光に近づくことで、大徳寺を守ろうととしたのだと見る説もあります。大徳寺の寺法を紫衣事件の前の状態に復活させることに成功し、諸伽藍の復興にも尽力しました。後水尾上皇から、國師号の授与を打診されますが辞退、一休と同じく、禅師号も持っていません。自分の寺を持とうともしませんでしたが、家光のたっての願いで、品川東海寺の開山になり、その住持となります。沢庵は嗣法の弟子を一人も作らなかったので法統は絶えましたが、歿後の東海寺は、大徳寺の長老が輪番で住持する、江戸では広徳寺、祥雲寺と並ぶ大徳寺派の大寺として今に続きます。沢庵の軸は、生前から人気がありました。「槐記」の伝えるところでは、讃(画への)の軸があんまり多いので「讃沢庵」と言われたといいます。ことに和歌の讃が多く、和歌は当時の和歌の名人烏丸光廣について、かなり勉強した、最初は光博から、禅に無用のことだから、和歌などやめるようにと言われたが、その返事に、夢窓には作庭の癖、雪舟には描画の癖があるように愚僧には和歌の癖があるとし『世の中の人には癖はあるものを我には許せ敷島の道』という和歌が添えてあり、光廣も入門を許した、と書かれています。確かに松花堂の絵に賛した大津馬の図はじめ、讃の軸は多いようです。和歌入りも含め、消息も結構あるようで、沢庵の消息は、挨拶などの前置きがなく、いきなり用件から始まるものが多いとも聞きます。勿論、一行物や、横物もあり、いつの時代でも、もてはやされました。近代数寄者にも愛されて、その使用頻度は江月より多く、遠州にも勝るかも知れません。現状でも、大きな道具市なら、一本くらい顔を見せることもあり、ネットオークションでさえ珍しくもないくらいで、かなりの数、つまり、贋沢庵の存在も認めざるを得ない状態のようです。

  萍亭主