大徳寺の僧侶の墨跡が、茶会向けに書かれるようになったのは、江戸時代の初期からでしょう。その最初の中心的人物が、沢庵、玉室、江月の三人でしょうか。

 前回取り上げた春屋も、茶人から頼まれて揮毫するようになった初期の一人でしょうが、この春屋の弟子が、玉室と江月です。二人とも自身が茶の湯好きであり、茶の湯世界と密接な関係にありましたが、より関係が深かったのは、江月の方でしょう。江月は、堺の豪商天王寺屋の嫡系で、父の津田宗及、祖父の津田宗達は高名な茶人ですし、元々茶の湯に縁の深い環境に育ちました。江月は、小堀遠州や、寛永三筆の一人松花堂昭乗と親交があり、二人の茶会にも、よく出席しています。昭乗の絵に賛をしたり、遠州と合筆したり、三人でコラボした作品も多く、それがまた、江月の書の人気を高めています。江月は、玉室よりは二歳年下、沢庵の一歳下ですが、この同世代の三人は仲が良く、いわゆる紫衣事件が起こった時には、三人は団結して、幕府に抗議、反抗しました。紫衣事件については、ご存知の方が多いと思うので略しますが、要するに、僧侶への資格授与に関して、朝廷の慣例によらず、幕府の権限で行うとしたものに、僧侶側が反対した事件です。幕府は、法度に反逆をしたという事で、寛永6年(1629)、首謀者として大徳寺、妙心寺の僧侶を罰しますが、沢庵が出羽(山形県)、玉室が陸奥(福島県)に流罪になったのに、何故か、江月だけは罰せられませんでした。理由は諸説あって、よく判りませんが、世間、ことに朝廷贔屓が多い京童は、裏切者視し「降る雨に沢の庵も玉の室も流れて残る濁り江の月」という落首があったという有名な話があります。この負い目があったからかどうか、江月は晩年、酒に溺れ、周囲や友人の沢庵を心配させたという話もあります。江月は大徳寺住持としては百六十七世になり、寺の法堂の再建に尽力し、その棟札も書いています。師の春屋の没後、その隠居所であった龍光院を本拠とし、小堀遠州の要請で、院内に弧篷庵を作り、その開山になりました。弧篷庵は、後に現在地に移りますが、遠州好みの茶室があるので有名なことはご承知の通りです。龍光院に国宝の遠州作の茶室があるのは、勿論、江月との縁でしょうが、それだけではなく、国宝龍光院天目はじめ貴重な茶道具が、江月ゆかりとして多く残ります。実家の天王寺屋津田家からの伝来のものもあるようです。江月自身、茶の湯を遠州から学んだとされ、何人かの大名に、茶の湯を教えたとされます。江月の軸は、在世中は遠州が用い、遠州流では貴重視され、江戸時代にも、人情本の中に出てくるくらいポピュラーであり、明治の数寄者は、遠州、松花堂のファンが多かったので、それに伴って人気がありました。江月の軸は、軽い感じのものも多く、使い易いものも多いといいます。フルネームの江月宗玩でなく、欠伸子という号だけの署名のものもあるようです。軸の数も多くあり、今でも道具市に、真偽とりまぜ、顔を見せるのも、そう珍しくありません。

  江月は、寛永20年(1643)、七十歳で亡くなりました。松花堂昭乗より四年、玉室よりも二年遅く、沢庵より二年、遠州より四年早い最期でした。

   萍亭主