さて、又、墨蹟に関する大徳寺の僧侶の話に戻りますが。

 先にブログに書いた古渓宗陳と同じく、笑嶺宗訢の弟子の一人に、春屋宗園があります。ちょうど織田信長が足利義昭を奉じて上京した頃に、大徳寺百十一世になり、後に朝廷から円鑑國師の号を受けました。長命で江戸時代初期の慶長16年(1611)まで生き、多くの武将、茶人と交わりました。利休とは古渓ほど深くはなかったようですが、勿論交遊はあり、利休の寄進した大徳寺山門金毛閣の棟札を書いたり、利休の長男道安に眠翁の号を与え、その頼みで、長谷川等伯が描いた利休像の讃を書いています。利休の孫宗旦が少年時代、大徳寺で修行した時の師も春屋でした。茶人では、古田織部、藪内紹智、上田宗箇、小堀遠州も春屋に参禅し、それぞれ、金甫、劍仲、竹隠、大有の号を与えられています。武将では石田三成と親しく、関ヶ原の戦い後、処刑された三成の遺骸を、自分の創立した塔頭三玄院に厚く葬った逸話は有名です。秀吉の軍師で、茶の湯を好んだ黒田官兵衛とも交遊が深く、息子の黒田長政が菩提寺として建てた塔頭龍光院の開山に迎えられています。龍光院には、小堀遠州作の国宝茶室「密庵」があり、三玄院には藪内家の墓や茶室篁庵があり、茶の湯との関係の深さを感じさせます。春屋の広い交際を見ると、どうも人付き合いの良い、懐の深そうな人物のイメージがあります。

 春屋の墨跡は、在世中から、もてはやされ、結構数多く残されているようです。割と平易な一行物もあり、江戸時代を通じ人気があり、近代数寄者の茶会でも用いられています。例えば、藤田江雪は「巌松無心風来吟」の一行を、根津青山は「機輪転処実能幽」や「向上一路千聖不伝」の一行を、高橋箒庵は「特山入門便棒臨済入門便喝」の色紙を使っています。その書の巧拙は、私などには到底わかりませんが「槐記」には、近衛家煕が語った、こんな言葉ががあります。「春屋は、遠州がもてはやしたるにより沢庵、江月と共に世上に流布す」。そして、その後にこういう話が続きます。金森宗和は、春屋の書が大嫌いだった、宗和は「今日もいい茶会に行って、道具や趣向も良かったが、ただ床の間に、例の坊主が座っておって(春屋の軸が掛かっていて)」と嘲った、というのですね。そして、家熙の曽祖父の近衛応山(信尋)の言葉として、「春屋ほど悪き手(手跡)はなし」と紹介し「応山もお叱りなされし悪筆なり」と結んでいます。この批評は、果たして、どんなものでしょうか。

  萍亭主