大徳寺の僧侶列伝の最中ですが、ちょっと別の話を。

 少しは出歩かないとと思い、先日、上野国立博物館で開催中の「本阿弥光悦の大宇宙」展に出掛けてきました。本館で開催中の「中尊寺金色堂展」は混み合っていましたが、平成館のこちらは、案外空いていて、意外でした。光悦は茶湯世界ではビッグネームの筈ですが、思ったほど一般ウケではないのでしょうか。さすが国博という感じの充実した内容で、例の宗達下絵の三十六歌仙巻物を筆頭に、多くの書状、謡本など、本阿弥切などの愛蔵品や、舟橋蒔絵硯箱を始めとする漆芸、そして茶碗は、「富士山」と「雪峯」以外の名碗が全員集合という感じです。茶碗の部に、長次郎の「無一物」や道入の「鵺」なども並べられて、本家の楽茶碗と対比、鑑賞する事が出来、改めて勉強になりました。今まで、茶の湯関係の展覧会で、バラバラに見ていたものが、一堂に見られるのは、やはり違うものです。それに、茶の湯関係の展覧では出てこない、本阿弥家の本業である刀剣関連、法華経信者の光悦の揮毫になる寺の扁額など、私には実に珍しいものでした。刀剣は国宝級も並んでいて、今の流行と聞く刀剣女子が喜びそう、寺の扁額は、本法寺のものが光悦筆とは知っていましたが、本門寺や中山法華経寺まで書いていたとは知りませんでした。

 別の日、今度はサントリー美術館の「織田有楽斎」展を見に。ここもそれほども混雑でもありません。有楽の死後、四百年(正確には四百二年)を記念して、去年、京都で開かれたものが東京に来たものです。有楽が建仁寺塔頭として再興した正傳庵が、明治以降衰微して、福島正則の開いた永源庵と合併、現在正傳永源院となっているのですが、ここには、今、犬山にある国宝茶室如庵があったのはご承知の通りです(現在は写しが建っています)。有楽に関する書状、茶道具、織田一族に」関する資料などですが、大半は正傳永源院所蔵のもので、第二室の展示などは、有楽とあまり関係なく、同院の収蔵寺宝展という感じ。蘭渓道隆や一休の墨跡、光悦書状、利休や紹鴎の茶杓なんてものもあって、古いお寺らしさを見せます。有楽所持の茶道具としては、玉垣文琳、有楽井戸、布袋香合、茶杓「玉ぶりぶり」などが他の美術館から出されていて、中でも、慈照院の猿投窯の緑釉四耳壺(重要文化財で、有楽が水指に使ったという)と、徳川美術館の三島筒茶碗「藤袴」、永青文庫の呼継茶碗などが、私は初見で珍しい品でした。茶人としての有楽は、利休から台子伝授を受けたとか、利休にその作意を嗜められた事があるとか、古田織部や高山右近を批判したとか、宗旦に「茶の湯の底が見えた」と批判されたとか、種々の逸話がありますが、私には、その茶風はまだどうもよく掴めません。有楽自身は、古典的利休流だったんじゃないかと想像はするのですが。現在の有楽流のこともよく知りません(いくつかに分かれているとか?)。

 さて、一つ妙な体験をしました。退館前にトイレに入ったら、中年の男性から「あなたは織田長益公(有楽)のことを、どう思われますか?」と突然、問いかけられたのです。え?と戸惑っていると、「私、織田家の子孫で、皆さんがこの展覧会に来て頂けるのは有難いと思っているのですが」と言いながら、同じ質問を繰り返されます。有楽は武将としては、関ヶ原の戦いで、個人的な武功を挙げたとか、逆に本能寺の変の時、信長の嫡男信忠と二条城に籠り、明智勢に攻撃され、信忠に切腹をすすめながら、自分だけ脱出したとか、大坂の陣でも、冬は豊臣方の総司令官格でいながら、夏は離城して、徳川家に仕えたなど、毀誉褒貶のがあり、「逃げの源伍」と世評されたといいます。展覧会の解説書でも、その世評を何とか打ち消したがっている節も見えます。そういう話に巻き込まれるのも面倒なので「いや私は、茶人としてしか知らないので」と、曖昧に逃げました。不満そうな相手に「ご

子孫というと芝村ですか、それとも柳本?」(有楽の子孫は、大和のこの二箇所で大名になっています)と、聞き返すと「いや私は山形の高畠です」「そうですか、それはそれは」と不得要領に別れましたが、あれと思ったのは、高畠(天童)は、信長の次男信雄の系統で、有楽の子孫ではないのですが、一族愛なのでしょうか。名門というのは違うものです。

   萍亭主