春浦宗熈以降も、大徳寺には数々の名僧が出ますが、茶の湯と縁がないため、その名が茶の湯世界で語られることはありません。

 茶の湯に関連して名が出るのは、古嶽宗亘(こがくそうこう)でしょうか。一休和尚より七十歳ほど年下で、近江(滋賀県)に生まれ、春浦の弟子の実伝宗真から印可を受けました。大徳寺の七十六世に任じられ、朝廷の尊崇が厚く、とくに後奈良天皇は帰依して、宮中に招き、教えを受けました。そして、大徳寺としては開山の大燈國師以来の國師号(大聖國師)を贈られています。塔頭大仙院を開き、大徳寺北派を造り上げました。組織運営にも優れた人だったと言われます。特別名勝・史跡の大仙院の書院枯山水は古嶽作と伝わり、この時代の文化の象徴の一つとされます。戦国時代を生きた人ですが、茶の湯との関わりは、当時勃興していた堺の豪商グループと交わり、武野紹鴎の師といわれる十四屋宗伍の参禅の師となり、天王寺屋津田宗達にその名を与えたのも古嶽であるといいます。利休の曾孫江岑宗左の書き残したものによれば、利休は古嶽の書いた「柏樹子」(禅問答の句)の軸を掛けた、これが大徳寺の僧侶の墨跡を使った最初である、とあります。これが、利休にとってと言うことか、茶の湯全体でなのか、文脈ではちょっとわかりませんが、後者と解釈される事が多いようです。若い利休が初めて茶会を開いた四年後に亡くなっているので、同時代人とも言えます。

 古嶽よりポピュラーな名前は、大林宗套(だいりんそうとう)かもしれません。武野紹鴎の参禅の師として、紹鴎について語られる時、かならずといっていいほど出て来る名前だからです。利休も参禅し、宗易という法号は、大林から与えられたのだと言う説もあります。大林は京都生まれで、古嶽の弟子となり、印可を受け、師の推薦で大徳寺九十世になりました。その後、三好長慶が一族の菩提寺として堺に建立した南宗寺の開山に招請され、堺の町衆との交流が始まります。今井宗久、津田宗及なども参禅し、大林は茶人グループに大きな影響を与えたと見られます。南宗寺には、紹鴎や津田宗及一族、千家歴代の墓地があり、伝説ではありますが、南坊録の南坊宗啓の住んだ集雲庵の跡地というのもあって、茶の湯との関係の深さを忍ばせます(ちなみに千家の墓は供養墓です)。南宗寺は、大坂夏の陣の戦火で焼失しましたが、沢庵和尚により立派に再建されました。大正6年、大林の三百五十回忌に、参詣した高橋箒庵は、大林が書いた「潤徳」というニ大字の墨跡を拝見して、古色のある建物や庭、茶室、手水鉢などに感嘆しています。ただ箒庵の見た南宗寺も大阪大空襲で焼け、仏殿と山門以外、近代のものです。

 実は、古嶽も大林も、その墨跡は、数が少なかったのか、どうも流通せず、江戸時代や近代の茶会記を見ても、どうも使われている様子がありません。美術館の展覧などで見たことはあるのでしょうが、今、ちょっと思い出せないでいます。名前を読んだり、聞いたりすることは割とあり、茶の湯と縁がある人なのに、その軸が茶席に現れる事がないのは何故なのでしょう。いわゆる茶掛風なものは、まだ書かれない時代の人ではありますが。

    萍亭主