大徳寺の僧侶の墨跡も、一休以前の僧侶のものは、開山の宗峰妙超を除き、茶の湯に使われた様子はあまりありません。
大徳寺の禅は、中国僧の虚堂智愚から、南浦紹明、そして大徳寺を開いた宗峰妙超から徹翁義享、言外宗忠、華叟宗曇から一休宗純へ続くわけで、それで一休はよく「虚堂七世之孫」と、署名するのですが、その虚堂の墨跡は、茶の湯世界でも珍重され、「破れ虚堂」などという名物もあるのですが、勿論数は希少です。徹翁以降一休以前は、他の大徳寺僧侶も含め、その墨跡はほとんど流通していません。私は、徹翁や華叟の書は大徳寺展で、言外は地方の小さな美術館で見た記憶がありますが、茶席では勿論見た事がない。徹翁の墨跡は小堀遠州が「虎杖」の二字の軸を使った記録があり、言外も江戸時代の茶会記で一度見かけますが、華叟はどうもありません。その他の僧侶も茶の湯の世界で、語られることはまず聞いた事がありません。一休以降も、茶の湯に縁がないとダメで、どうも、縁のない僧の書は残らず、たとえあっても使われないようです。実は、大徳寺の坊さんといっても、生涯茶の湯に縁のない人も大勢いました。江戸時代、大徳寺の茶面などと言われても、全部がそうだったわけではなく、北派と呼ばれる塔頭グループだけが茶の湯と関係が深く、南派は縁が薄かったと聞きます。そう言われてみると、歴史的な名茶室は、聚光院、高桐院、龍光院、玉林院、弧篷庵、三玄院など、北派の塔頭に集中しています。茶の湯に縁がなくても、禅僧として偉い人は勿論大勢いたのでしょうが、そういう人の名は、どうも無視されます。
一休と同じ、華叟の弟子に、養叟宗頤(ようそうようい)という人がいます。一休より兄弟子格で、大徳寺の二十六世となり、京都だけでなく、堺にも大徳寺の教えを広め、一般民衆にも法を説き、在世中は大変人気があり、大徳寺の禅も一休の弟子筋ではなく、この人の法系で伝わった人です。ただ一休からは「禅の安売りをする」と非難され、その著書で散々罵倒されているのですが、そのせいでもないでしょうけれど、この人の墨跡は、一向に茶の湯には現れません。
養叟の弟子に、春浦宗熈(しゅんぽそうき)がいます。一休よりも早く、大徳寺四十世に任じられ、朝廷から厚く信頼され、禅師号を授与された名僧です。応仁の乱で焼失した大徳寺の復興に尽力し、大きな功績があるのですが、一休はこの人も嫌っていて、面と向かって「法中の姦賊」と罵った事があると伝えます。ほかに伝説では、武将北条早雲は、この人の弟子であったといいます。春浦の墨跡については、こんな資料があります。利休の曾孫の江岑宗左が書いているのですが、春浦の墨跡を利休が表具したものがあったというのです。「中白キ唐紙、上下あさき(浅黄)紙、一文字風帯いんきん(印金)、紙表具ノ初也」とあります。軸の表装は、布か紙ですが、これによれば、紙表具を考案したのは利休だったとなります。春浦文とだけ書かれているので、内容は分かりませんが、大切な道具だったようで、堺の藪宗巴と 人が所持し、その後織田有楽に伝わり、織田宗全を経て、利休の息子道安のものになったと伝来を詳しく書いています。その後、この軸がどうなったのかはわかりません。江戸時代の会記には、春浦の墨跡を使った記録が一度ありますが、近代数寄者の茶会では使われていないようです。要するに流通が少ないわけですが、近年、一流道具商で、春浦の墨跡が扱われたという情報もありますから、どこかにひっそりとあることはあるのでしょう。
萍亭主