一休和尚の人気は、ポピュラーなものですが、茶の湯の世界でも多くのファンがいます。

 近代の数寄者の中では、和敬会のメンバーで、安田財閥の創始者、安田善次郎こと松翁が代表的な一人です。松翁は、一休忌茶会と称して、毎年、十一月二十一日に必ず茶会を催しました。この日は、文明13年(1481)に八十八歳で亡くなった一休の命日です。きっかけになったのは、曽我蛇足が描き、狩野探幽が所持して、狩野家に伝来、秘蔵された一休の画像を松翁が懇望して譲り受けた際、譲る条件として忌日に必ず茶会を催すという約束をしたからだとされます。明治36年頃のことだと思います。松翁は律儀に、死去前年の大正9年まで、この約束を守りました。茶会といっても、正式の茶事ではなく、知友十数人を招いて、画像を飾った部屋で午餐を振る舞い、庭園を観せてから、広間で薄茶を饗するという形式で、第一回を除いては、濃茶も出していません。客の多い時は、二日にわたって催したりもしたようですが「例年、同器物同趣向であるから、近年次第に客が減じたようである」と記録されています。どんな趣向だったか、松翁茶会記には、客の名前が記されているだけで、道具組が落ちているので不明ですが、大正7年に、この会に初めて参加した野崎幻庵が記録を残しています。それによると、飾られた画像の前に、青貝の卓の上に、銀の花入に樒と松を入れて、青磁蓮弁香炉に名香を炷き、蒔絵天目台の茶碗と朱塗の菓子器を供えてありました。画像は文安三年の年季銘の自賛のあるもので、蛇足は一休に参禅し、幾つかの像を描いていますが、この軸が今どうなっているかは分かりません。食事が出された後、庭園に案内され、菊花壇を鑑賞した後、薄茶を供されました。道具組は、天猫の風炉釜、染付葡萄棚の水指、青井戸と徳川斉昭手造りの茶碗銘紅葉、中山胡民の蒔絵棗、茶杓が信海(豊蔵坊?)作の銘わくらば、蓋置銅火屋香炉、建水砂張ですが、「総じて使用の器物、他の会で見る如きものなく、趣向また格別に取り立てて称すべきものもなけれど」と、幻庵は冷淡に評しています。当時の財界茶人からすると、松翁はあまり名器を使わないという定評がありました(この日も懐石道具は伊万里ばかり使っています)。さて、茶席の軸は、これも一休和尚の画賛で、「臨済鋤茶偽山摘茶図」ですが、「 一応拝見の上着座」と、幻庵は何の感想も述べません。この図の長い賛には、実は珠光の名前が入っています。珠光が一休に参禅したというのは、長い間の種々の伝承もあり、一休の法要に献金した記録があるとか、墓が真珠庵の中にあるとか論じられるのですが、最近の学者には関係を疑う人もいるようです。もし、この軸が本物ならば、珠光と一休の関係を示す強力な証拠になる筈ですが。松翁は、他にも一休の軸を所持したようで、「鼠入銭筒技已窮(ねずみ、ぜにつつに、はいり、わざ、すでにきゅうす)」という横一行を掛けて、不況で窮乏した銀行や会社を数多く救った松翁に相応しい、適材適所な軸があったものだと、高橋箒庵を感心させています。ちなみに一休の一行は、「仏法南法一点無」とか「三個胡孫夜篩銭」など難しい句が多く、今のわかりやすい一行とは違います。記録には「薫風自南来」もあると言いますが、署名もなく印だけだということで、これはちょっと怪しく感じます。ともあれ、一休茶会は、幻庵も、器物は誉めませんが、一休和尚の大徳、偉業を追慕、尊敬する松翁の至誠の心は認め、その率直で飾りけのない茶風と共に「物薄くして礼厚し」とは、この茶会だろうと評しています。

   萍亭主