古今の大徳寺の僧侶で、最も知名度の高いのは、一休と沢庵じゃないでしょうか。

 最近は、沢庵は漬物の名前としか思わない若い人たちも多いですが、一休の方は、今でも例の一休頓知咄が、小学生にもまだ浸透していて、ずっとポピュラーなのです。勿論、頓知咄や講談にある話は虚構ですけれど、実際の一休の言動も破格で、強烈な個性があります。正式名は一休宗純、後小松天皇のご落胤ということは、墓が宮内庁管理になっているように、今では公式見解です。大徳寺住持としては、四十七世になりますが、実際には寺に入らず、すぐ辞職したとされます。大徳寺の塔頭真珠庵は、一休の開基で、その墨跡も多く残され、重要文化財になっていますが、中でも「諸悪莫作」「修善奉行」の一行の対幅は有名です。これに見られるような、一種独特な、奔放な書体は、昔から人気がありました。茶の湯の世界でも、何しろ、侘び茶の祖珠光の参禅の師ですから、敬われ、その墨跡は大切にされました。一休の書は、近代数寄者の茶会でも、数多く登場します。「東都茶会記」「大正茶道記」を覗いてみると、その法語、偈頌、詩、一行物、和歌、消息、色紙、画讃など、多様なものが使われた茶会が、三十回以上記録されています。一休の書は、わりと数多く残されているのでしょうが、さて、本物はどのくらいあるのでしょう。 大正11年に、三井松籟の追福茶会で、一休自画賛の骸骨図巻が使われた時、高橋箒庵は「この写しは世上に数多く見るが、稲葉子爵家旧蔵のこれが本歌である」と、一休は模写が多いことを認めています。余計なことですが、真珠庵の仏堂には、前述の「諸悪莫作」の双幅がいつでも、ぶら下がっていますが、あれも模写で、本物はしまってあるのだと思います。重要文化財が傷んじゃいますからね。さて、箒庵と同時代の作家薄田泣菫が、こんなことを書いています。東京の事業家は金が出来ると、皆、茶道具を集めたがる、それも人気があるものだけじゃなくて、一癖あるものを求めたがる、道具屋に「ねえ君、一休和尚、あの人が書いた君が代の歌なんてないかしら」「さあ、ないこともございますまいて」というような問答があって、数ヶ月後には、どういうわけか、一休の君が代の軸が現れる。当時の世相に対する風刺ですけれど、実際、数多くある一休の軸は、重要文化財になっているようなものを除き、大丈夫なのでしょうか。私は一度、一休の梅の自画賛が掛けられた席に入った事があります。恐ろしく真っ黒に汚れていて、時代感はめちゃくちゃあるのですが、どうもピンと来ない。お席主には申し訳ないのですが、どうしても感心出来ず、困った経験だったのを思い出します。

   萍亭主