坊さんが書いた軸は、家元の軸と違い、流派を問わないので、便利でもあると言えます。

 古今に渡り、沢山の坊さんの軸があるわけですが、茶会でお目にかかるのも、道具屋で見ることも、ネットで売られているのも、圧倒的に大徳寺派の坊さんの書が多い。こういう現象が定着しているので、誰も何とも思いませんが、何故なんでしょう? 大徳寺は、侘び茶の祖珠光が一休和尚に参禅して以来、武野紹鴎、千利休と、多くの茶人が参禅して、茶に縁の深い寺で、千家などの茶人の墓も多く、歴史的な茶室も多い。茶の湯にもっとも関係のある寺というのは、昔から常識でした。京都の臨済宗七本山のあだ名(俗称、形容)でも「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と呼ばれています。茶人面、茶の湯面とも呼ばれたようです。ついでですが、他の本山は、妙心寺の算盤面、相国寺の声明面(しょうみょうづら)、東福寺の伽藍面、建仁寺の学問面(学者面とも)、天龍寺の武家面(羅漢面とも)、南禅寺の貴人面(公卿面、僧禄面、武家面とも)で、それぞれの特徴を冷やかしているというのですが、ともあれ、大徳寺は茶の寺として、京童に認識されていたわけです。はじめに茶の湯のために掛け軸を書いてくれたのが、大徳寺僧だったこともあるでしょうが、茶人の方も書いて貰いやすい、持ちつ持たれつの関係が続いたと言えましょう。徳の高い僧や自分の師匠の書を崇めるという原点からいっても、大徳寺という肩書きがつけば、知らない坊さんでも、茶の湯の本山の人だから尊敬していいんだろうということになる。茶の湯に関係のある人の軸が好ましいという点でも、大徳寺さんだからということで安心感がある。ある道具屋さんで、初心らしい客に「まあ同じ文句でも、こっちの方が大徳寺さんですから通りがいいですよ、表具はあっちの方がいいがね」と薦めているのを、聞いた事がありますが、そんなものなのでしょう。実際、江戸時代は大徳寺以外の僧侶で、茶席にかけられそうな軸を書いている僧侶はほとんどなく、明治以降の近代茶の湯が盛んになると、他宗他派の僧侶も茶掛を書くようになりますが、やはり大徳寺の数に及ばない。今、奈良だと東l大寺や薬師寺、北陸だと永平寺や国泰寺、鎌倉だと円覚寺や建長寺など、地元の僧侶の書が使われる茶会もありますが、大徳寺のように全国区にはならない。茶の湯に関連が深いという事で、建仁寺の茶僧と呼ばれた竹田黙雷や、表千家即中斎の参禅の師である竹田益州、妙心寺で鵬雲斎の参禅の師の梶浦逸外、坐忘斎の参禅の師盛永宗興などの軸が用いられる事がありますし、現在、出身が旧華族で、京都に勢力のある、相国寺の有馬頼底和尚の軸なども見受けますが、全部合わせても数では大徳寺党には及びません。この大徳寺の一人勝ちはいつまで続くのでしょうか。

 さて、大徳寺の軸が多いといっても、江戸時代以前の筆者で、用いられている人の数は、ある程度限られます。次回からは、その人たちを点検してみましょう。

   萍亭主