茶の湯の本席の床の間にかかる軸は、圧倒的に書の軸が多いのはご承知の通りです。

 昔は、絵の軸と区別して、わざわざ掛字、掛絵と言ったそうですが、これは今では死語でしょう。茶の湯の歴史で、最初に用いられた字の軸は、墨跡であったとされます。侘び茶の開祖珠光が、一休和尚から与えられた圓悟(中国の僧)の墨跡を用いたとか、利休が掛け物の第一は墨跡であると言ったとか、いろいろな伝承がありますが、この墨跡の定義がややこしい。そういうふうに書いてあった本もあったので、私は最初、禅語を書いたものを、そう呼ぶのかと思ったものですが、新編茶道大辞典には「本来、禅宗の高僧の書跡をいう」とあり、中国(主に元・南宋時代)の高僧の書に限られ、また日本人では大きな禅寺の開山クラスの僧の書を指すとして、更に大徳寺の歴代住持の書もそう呼ぶようになったとします。古い辞典では、大徳寺の住持と言っても、江戸時代前期の沢庵和尚あたりを下限とするとあり、つまり、古い人でなきゃダメとあります。家元や塔頭の和尚さんや他の宗派のお坊さんが禅語や文字を書いても、墨跡とは呼ばないわけです。そうなると、実は現実の茶会では、墨跡はなかなかお目にかかれない。数が少ないし、大概のものが、国宝だの重要文化財などの肩書をつけて、しかるべき所に収まってているからです。茶の湯のために書かれたものじゃありませんから、わかりやすい大きな字の一行物などはなくて、小さな字で長文で書かれ た難しいものが多い。内容は、印可状(弟子が悟りを開いたという証明書)、法語、偈頌や詩、書状(尺牘[せきとく]と難しく呼ぶようです)、弟子へ与えた道号や庵号の額字(これは字が大きい)などに分類されますが、いずれにせよ、私のように無学じゃ対応出来ない。これを愛蔵した昔の茶人や近代数寄者の学識は大したものです。墨跡の中でも特に喜ばれたのは、大徳寺の開山である大燈國師宗峰妙超で、江戸時代初期から贋作が出るくらいでした。その師の南浦紹明、更にその師の虚堂智愚(きどうちぐ)、その遠祖の團悟克勤(えんごこくごん)は、大徳寺に繋がるとして、尊ばれたようです。墨跡の筆者は、国宝になっているものに虚堂、圓悟のものの他に、大慧宋杲(だいえそうこう)、無準師範(ぶじゅんしばん)、古林清茂(くりんせいむ)、密庵咸傑(みったんかんけつ)、了庵清欲(りょうあんせいよく)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)などがあり、楚石梵琦(そせきぼんき)、月江正印(げっこうしょういん)、中峰明本(ちゅうほうみんぽん)、清拙正澄(せいせつしょうちょう)なども会記に見えます。墨跡の筆者はまだまだありますが、読み方も面倒くさく、これ以上は省略しましょう。大師会など、一流の茶会では、唐画よりは、墨跡の登場する確率は高いと思いますが、私は縁がないので、墨跡の使われた茶会に出会った事がありません。いや、一度だけ、某氏の茶事で、大燈國師の墨跡が掛けられていて、「へえ」と感心していると、某氏は「家に伝来しているものですが、私は、これは贋物だと思いますよ」と、実にあっさり言われました。某氏のお家柄からいっても、私はかなりびっくりしたものですが。

    萍亭主