唐画について、私には、こんな思い出があります。

 北宋の徽宗皇帝が描いたとされる、国宝の桃鳩図、これは足利義政の愛蔵品で、その鑑蔵印が捺された品ですが、流転の末、明治時代には、元老井上馨の所蔵になりました。井上は世外と号し、茶人、美術愛好家として有名ですが、その収集欲でも知られていて、この軸は、江戸の豪商鹿島家に伝来たのを、かなり強引に手に入れたと伝えます。さて、この桃鳩図を、馨の孫の井上三郎侯爵が、精密に模写し、自分の孫娘の誕生祝いに与えました。この孫娘が私の親友の奥さんになったのです。二十年以上も前ですが、我が家で春に小寄せ茶会を催した際、ふと思いついて、心やすい間柄なので、この軸を借りてきて、濃茶席の寄付きに掛けました。三尺幅の床に収まる大きさで、それ自体は悪くはなかったと思うのですが、さて、本席の方が、我が家のことですから侘び道具ばかり。とても、写しとは言え、国宝の品位と全くチグハグで、老練なお客様の中には、変な顔をなさった方もあったでしょう。寄付きに掛けるものがないから、季節が桃が合うしなどという安易な気持ちで借りてきた失敗です。親友も奥さんもなくなり、ほろ苦い思い出だけ残りました。

 唐画は、茶の湯のために描かれたものではなく、茶の湯の方で利用したものですが、同じく、昔はたまに茶の湯に使われた絵画に、日本人が描いた唐画風なものがあります。主に室町時代の画僧で、妙心寺退蔵院の国宝「瓢鮎図」で有名な如拙や、国宝や重要文化財の多い相国寺の周文、東福寺の明兆(兆殿司)、建長寺の祥啓(啓書記)、有名な雪舟等楊や、雪村周継などです。茶の湯を知らぬ若い頃、私は、如拙や周文、可翁が、その名前から日本人ということを認識していなくて、笑われた事がありました。お恥ずかしい話です。

 日本画は、室町時代以降、利休像を描いた長谷川等伯や、海北友松、曽我蛇足、そして狩野派、土佐派、円山派、四条派、琳派、文人画など、さまざまに展開して行きますが、茶の湯とは縁は薄かったようです。江戸時代、探幽や常信などの狩野派が、茶席で用いられた形跡はありますが、墨絵の小品で、彩色画は画賛をなどを除き、あまり使われていないようです。近代数寄者の茶の湯になると、待合や薄茶席に、尾形乾山、酒井抱一などの琳派が好まれる事が多く、小林逸翁が蕪村の蒐集家であったことは有名です。美術鑑賞という観点が強まったため、近代数寄者の茶の湯では、昔の絵巻物、源氏物語や保元物語、北野縁起などの断簡を掛けた例もあります。昭和9年に平成天皇の誕生を祝って、益田鈍翁が、紫式部日記絵巻の皇子誕生祝賀の団を切って軸装し、茶会を開いた逸話は有名です。しかし、近代数寄者においても近代日本画は、どうもあまり顧みられず、竹内栖鳳クラスでも、小品が待合にかけられる程度で、本席の軸には出世(?)しない。この傾向は、今に至るも変わっていません。

  萍亭主