江戸時代、茶の湯の菓子はどんな感じだったか。

 試みに、川上不白が、天明8年(1788)七月から翌年寛政元年三月までに催した、七十歳の賀の百会記をめくって見ると、大体、以下のような菓子が使われています。連続の茶事ですから、季節ごとに、大体同じものを使っているのですが、饅頭、羊羹、蕨餅、かたくり砂糖敷き、きんとん、りうきうかむ(琉球羹?)、柚饅頭、大坂饅頭、むろの梅、小倉野、葛饅頭が使われており、薄皮餅、草あんもち、柚餅というのが一回づつ、古典的な菓子の「かせいた」も二回ほど使われています。どこ製という記述は一切なく、自家製もあるのかもわかりません。同じ不白の、これより四半世紀以上前の宝暦年間の会記を覗くと、ふのやき、いりかや、昆布、かせいた、柿など、利休時代とあまり違わないものも使われているので、菓子の発達は、18世紀末頃からだと納得出来ます。

 江戸時代後期、江戸で「上菓子屋」と呼ばれた高級菓子店は、時期、記述により、多少の違いはありますが、大久保主水、宇都宮内匠、鈴木越後、金沢丹後、鳥飼和泉、紅谷志津摩、船橋屋織江、越後屋若狭などがあげられます。この内、大久保主水(初代は神田上水の掘削完成で有名です)と宇都宮内匠両家は江戸城出入りの御用達で、一般への販売などせず、江戸城でも、嘉祥の日(6月16日。この日に菓子を食べる事が、開運招福になるというので、将軍家から臣下に菓子が配られる)や、五節句用の菓子、諸大名などへの下賜用の菓子がメインで、茶の湯用の菓子は専門ではなかったと思わます。鈴木越後は羊羹などの高級菓子で有名で、旗本など上流武家の間の進物は、菓子ならここでなければ駄目というほどで、同じく高級店である金沢丹後の品を使ってさえ、ケチだと問題になったという逸話がありますが、茶の湯の菓子も作ったろうとは思いますけれど、確証はない。鳥飼和泉は饅頭、紅谷志津摩は練り羊羹で有名ですが、茶の湯以外の消費が多かったろうと思います。茶の湯菓子を作っていた確証があるのは深川の船橋屋織江で、川柳に「別荘へ釜日を聞きに船橋屋」があり、入谷あたりの寮や隠宅に、茶会の納品の打合せに来ている状況が描かれています。ともあれ、上菓子屋と呼ばれたこれらの店で、今なお続いているところはなく、太平洋戦争までに全て廃絶したようです。船橋屋織江という店は、二、三年前まで大磯にあったと聞いた事がありますが、直系かはわかりません。今、東京で江戸時代の創業を誇る(明治維新後東京に移った虎屋黒川などは除いて)和菓子屋は、桜餅の長命寺、梅干飴や金鍔の栄太楼、くず餅の船橋屋、言問団子、最中の秋色庵大坂屋、銅鑼焼きの梅花亭、ぜんざいの梅園など(他にもまだあるでしょうが)、皆、茶の湯菓子ではなく、普通の菓子なのは、生存競争には、こちらの方がやはり強いようです。

   萍亭主