先日、東美アートフェアに行った折、ちょっと面白いことがありました。

 ある店の前で、店主が、若い初心らしい客たちを相手に、滔々と弁じている、教えているのを小耳に挟んだのですが。骨董、古美術を扱う店の主人は、皆、相応の学識があり、一家言を持つタイプが多く、自分の知識を客に教え込む、悪くいえばひけらかす、説教するのが好きな人もいますが、この主人もそういうタイプだったようです。話題は、どうも並んでいた唐津茶碗についてだったようで、客が、これは何時頃のものか?と尋ねたところから始まったようです。店主の言葉を要約すると、「唐津焼というものは、桃山時代の古唐津か、そうでないものか、それだけがはっきりわかればいい。桃山時代の古唐津だけが値打ちがあるんで、後のものは、江戸時代から明治時代まで、ながーい時間があっても、そんなかのどの時代で作られたかなんてことは意味ない、みんな値打ちがないんだから、どの時代に作られたって同じだ、長い時代を、江戸の中期だとか後期のもんだとか言ったって始まらない。桃山か、それ以降か、それだけ、しっかり見極めrばいい。あとは気にする必要はない、その為に茶道具には『時代』って表現があるんだ」というようなことです。若い客たちは成程と感心していたようです。値打ちのあるなしで判断する、いかにも道具屋さんらしい視点ではありますが、窯の歴史を郷土史的に研究するような学者さんには不満かもしれませんし、江戸時代になりゃどれでもみんな同じよという、乱暴といえば乱暴かもしれませんが、茶道具の世界にはそういうところがあります。近年の陶磁器研究では、かって高取焼と思われていた古陶が唐津だったとか、上野だと思われていたものが高取だとか、いろいろ研究の成果があるとも聞きますが、茶道具の世界では、だからと言って価値が変わるわけでもなく、むしろ昔の伝承の方が喜ばれるというようなところはあります。

 それで思い出したのですが、我が家に、江戸時代のものだろう、いわゆる古萩と呼ばれる茶碗が三つあります。この三つが、どの順に古いものか、昔、気になって、目利きと呼ばれる三人の人に見てもらったことがあります。三人とも首を傾げながら、これが古そうですね、とか、これがどうも前の時代ですかね、などと、一応は順をつけたものの、三人ともバラバラだったと記憶します。どれが良い茶碗だろうという問いにも、「これなんかいいんじゃないですか」「私はこういうのは好きですね」と、好みも違っていて、ただ、三人とも一致していたのは、今の市場価格では、全部同じくらいの値段でしょうねという、要するに大したことはないという話で終わったわけです。唐津も萩も、本当に古いものでなければ、値打ちはない。値打ちも考え方もいろいろありましょうが、茶道具というもののファジーで、難しいのも困ったものです。

   萍亭主