前回の続きですが、雨の中の護国寺茶会、月窓軒を出て、まだ雨の勢いの止まらぬ中、廊下傳いに牡丹の間に向かいました。
待つことしばらくで、案内を受け入席。客数が十四人とゆったりです。ここは、護国寺で一番書院らしい風格を備えた部屋ですが、床には漢詩が二行半に書かれた、大きな丸表装の軸、脇書院には何やら写真が置かれて、書院の棚には古色のある唐物と思われる漆器の食籠に香炉(須坂侯お手作りとか)、板料紙と筆台などが飾られています。ここは不言庵流家元の席で、軸は流祖柴山不言の自作の漢詩、表装も自分でされたもので、道理でちと素人ぽい。この流儀の席は、だいぶ前ですが、お邪魔したことがあり、その時の女性家元が、今回も席主。少し歳を重ねて脚がご不自由になられたようで、椅子に座られてのご応対。軸の意味は「頑然醜怪壺」云々で、自分が作った壺は醜いが、でも天下に一つだけだというような意味らしい。柴山不言は、名古屋に生まれ、聖ハリストス協会の司祭で、茶の湯は、久田、有楽、表千家など、いろいろな流儀を学び、南方録を研究して、一流を開いた人です。著書の南方録註解の稿本が国立博物館に収められているとか、初期の南方録研究の第一人者で、大日本茶道学会の創始者田中仙樵も師事したと聞きます。茶道辞典によれば、昭和12年に亡くなったようで、今の家元は、女系の孫にあたられるのでしょうか?
さて、花入は、ここも宗全籠で、吾亦紅など数種を生けられ、香合は新物の黒柿、点前座の風炉釜は切り合わせで、加藤忠三郎作。棚が、天板地板ともに、蛤のような感じの形の輪島真塗の一重棚で、流祖の考案で、流祖の本名から、準行棚というものだそうです。棚には大ぶりの御深井釉の水指が載り、建水は志戸呂(心斎作)、蓋置が、流祖の手作りで大ぶりの一閑人で、流祖は小さな窯を作り陶芸も楽しまれたらしい。出された主茶碗は、素晴らしく大きな赤楽で、小鉢と言いたいほど、高台も非常に平たく、部厚い口造り、「重いですからお気をつけて」と言われるほど、成程手重い品です。表千家八代啐啄斎の手造りで、飛石のような斑点模様があり、飛石という銘のようです。啐啄斎の手造りは、表千家にあるのと、これと二つだけという御説明がありましたが、貴重ではありましょうが、忌憚なくいうと、もうちょっと不細工でない方がという感じ。替茶碗は、上野焼の渡高久作の白釉の井戸形。茶器は高崎秋峰の武蔵野模様の平棗、茶杓は天保十二年の銘のある米亭翁という人(どういう人か聞きそびれました))が七十七歳で作った物。お菓子は、里の秋という銘の柿を形どった千歳船橋の東宮製で、ほんのり甘く美味しい。流祖柴山不言は、外で掛け釜をしない人だったという話も伺いましたが、当代も、護国寺だからと肩肘張ることなく、自由に思いのままの道具組で席を運ばれているご様子は、茶の湯の自由さの象徴とも言えるかもしれません。
萍亭主