前回の続きですが、濃茶の廻し飲みの作法は、今後どうなってしまうんでしょう。

 そもそも濃茶が廻し飲みされるようになった起源はなんなのか。昔は一人づつに点てていたが、それでは時間がかかりすぎ、一座も退屈し、締まりがないので、一碗で多人数分を点てるようになった、それを始めたのは利休であるという説話があります(たしか「茶の湯古事談」でしたか)。しかし、茶の湯を知らない人から、何故廻し飲みにするかと訊かれたら、茶の湯の専門家は、そんな物理的な答えをせず、「同じ一碗の茶を分かち合って飲むことで、その場の人たちの心を一つにし繋げる、一味同心、一座建立のためであり、一期一会である茶会の最も大切な要素である」と、精神論を説かれるだろうと思います。確かに、一つの器から同じものを分かち合うというのは、日本文化の原型の一つの要素なのでしょうし、茶の湯が廻し飲みをやめたら、それはもう利休の茶と似て非なるものであるとする専門家も居られるようです。廻し飲みの廃絶は、精神面を重要視する茶の湯にとって、大きな問題であることは間違い無いのでしょう。

 この頃は前ほど叫ばれなくなりましたが、「三密を避けろ!」という言葉、あれを厳格に守ろうとすると、茶の湯は絶対駄目な行為ということになります。狭い密閉の場所に、複数人数が密着して入って、飲食を共にするんですから。「不要不急な行為は慎む」ということだと、趣味の行為であるとすれば、茶の湯は不急なものの一つとなります。幸い、コロナ感染への不安への緊張が緩み、器物の手渡し(菓子鉢を取り回すとか、つくばい柄杓を使うとか)を忌避する傾向もなくなり、だからこそ、大寄せ茶会もだいぶ行われるようになって来たのだろうと思いますが、でも一度植え付けられた恐怖心という概念は、なかなか拭いきれませんから、大寄せ茶会の濃茶席は、どこも各服点のままのようです。大寄せの濃茶席は、いずれなくなるだろうという説を唱えた人もいましたが、好日会や東茶会のような濃茶、薄茶各一席づつの伝統のある一流茶会は、依然濃茶席はあって、各服で行われているようです。これが定着すると、過去の記憶は薄れて、抵抗を感じなくなってしまうのかもしれませんが精神論から行けば、それでいいのかということになりそうです。某家元の茶会で、どうしても使いたい茶碗の関係で、廻し飲みとし、参加者にPCR検査の無菌証明を出させたという噂を聞きましたが、これも意地悪な見方をすれば、客の中に、コロナでない感染症を持っている人がいたら、どうなんだよという事もあるわけで、衛生学的な不潔、不衛生の観念と、茶の湯の精神的清潔論とは、どこかで折り合いをつけざるを得ないのではないでしょうか。あまり、無菌状態にこだわると、人間かえって抵抗力がなくなる、赤ん坊が塵を舐めたくらいで騒がないほうがいい、という論もあるわけで、どうも要はそれぞれの感性の問題でもあるような気もします。論がまとまりませんが、一つご紹介したいものがあります。実はこの夏に読み返した古い本で、面白いことを見つけました。75年も前に出た本ですが、その中に「濃茶の大寄せは、是非とも、各服点にすべきである」という論があるのです。詳しくは次回に。

   萍亭主