前回の繋がりですが、近衛家熙(予楽院)については、当ブログでも、「三十一本の茶杓」(2019年11月29日)で触れましたが、公家社会の茶の湯を代表する茶人です。

 家熙は、茶の湯を親戚の常修院宮から学び、金森宗和の流儀だったといいます。お姫宗和と呼ばれた金森宗和と、乞食宗旦の異名もあった千宗旦は、茶風も違い、同時代人だった二人は仲が悪かったという逸話も残っています。家熙も「槐記」の中で、宗旦流に対し、批判的な言葉をいくつか残していますが、それは、宗旦への批判ではなく、その頃盛んになりつつあった宗旦流(千家系)と名乗っている茶人たちが、宗旦が自然にしたこと(たとえば左利きだったからしたこと)を無批判に丸呑みしたり、あるいはよくわからぬまま間違って行なっている事を批判しているだけで、宗旦自身を嫌っている訳ではありません。家熙が収集した茶杓三十一本を収めた茶杓箪笥(陽明文庫蔵)には、宗旦の茶杓も一本、ちゃんと入っていますし、茶会の記録を見ると、茶杓だけでなく、宗旦作の花入(一重切や、「無理」という銘の二重切)とか、在判の釜、棗、作であろう在判の瓢の炭斗などを使っています。家熙の収蔵品の中には、宗入の黒楽茶碗などもあり、千家風の茶を嫌っていたとは思えません。少なくとも道具の上では、流儀にこだわる茶ではなかったと言えます。大体、家熙の曽祖父近衛信尋(応山)は、宗旦と親しく交遊し、いくつかの逸話も残っていて、家熙も「槐記」に、宗旦が信尋の所に伺候して雑談の折、今年は風炉の茶はどうやっているかと問われ、風炉の炭点前に使用する香木の伽羅が切れてしまうので、後一二回しか風炉は出来ませんと答えたので、信尋が伽羅を下賜したという逸話を書いています。ちなみに、この時代は、風炉の炭点前に、白檀でなく、伽羅を使用したのですね。宗旦のような侘び茶人でも伽羅を焚いたようです。

 「槐記」には、宗旦の左利きにまつわる帛紗や、自在の話の他に、宗旦流に関する批判として、こんな事を言っています。「今ノ宗旦流ト云モノノ、湯ヲ汲テ溢ルルコトヲ厭ハズ、溢スヲ本トスルヤウニ覚へタルハ、異ナコトナリ」と云うのです。今の宗旦流では、茶碗に湯を入れる時、柄杓から湯がこぼれるのを嫌わない、こぼす方が本来であるとしているのは変な事であると云うのですね。そして、昔、秀吉が、天下の宗匠(自分の茶の湯の先生)を決めようとして、自分の前で点前をさせて見たら、利休は一滴も湯をこぼさなかったのに、相手(ここでは津田宗及となっていますが、普通今井宗久とされます)は、天目台の上に一滴こぼして台を損じ、秀吉は利休を天下の宗匠にしたと云う故事を引いて、湯をこぼすのを容認するのは変だと批判して、湯の注ぎ方を講釈しています。他には、釣り花入を吊す釘は、床の間の落とし掛けの内側に打つのが本当なのに、今の宗旦流は、外側に打つのはおかしい、変であると批判しています。(現在の千家は内側に打っていると思いますが)。

 この二つの逸話は、私は覚えていたのですが、左利きの話は記憶になかったのは、記憶の脱落か、やっぱり読み飛ばしていたのか、不覚な話でした。

    萍亭主