前回の続きですが、小堀宗実宗匠が著書で引用された「宗旦は生まれつき左利きだった」という「槐記」の記述は、「生付(生まれつき)」という言葉は、原典では、帛紗問題のところではなく、それより前の、自在竹の扱いに関するところで出てきます。

 釜を釣る自在竹(鉤)の、釜を上下に上げ下げするための、自在を止める横木の事を「小猿」又は「猿」と呼びますが、それが、右に付くのが本当なのに、宗旦流では、左についている、それは宗旦が生まれつき左利きだった故だと書いています。「世間ノ宗旦流ト称スル人モ、見取ニテスルコト多シ、直ニ習ヒ聞ヌコトハ慥(たしか)ナラズ」。世間で宗旦流だと称する人も、見様見真似でやっているのが多い、直接習っていないことは確かなことではないのだ、と批判しているのですが、自在竹の小猿などはともあれ、帛紗をどちら側につけるかは、ある種、大問題かも知れません。

 しかし、本来、帛紗は右腰につけるもので、左利きだから、たままた左に付けただけだというのは、なかなか行われない説のようです。試みに、周囲の知友に、「何故、千家流は左に付け、武家流派は右に付ける?」と質問してみたら、「武家は左腰には刀を差すからでしょう」という普遍的な言葉が返って来ました。ちなみに、実際に脇差(小刀)を差しているから、邪魔で帛紗は挟めないと勘違いしている人も、たまにいるようですが、茶室の中では刀は外す、そのために茶室の外には刀掛けが設けてあるのは、ご承知の通りです。さて、同じ質問を、京都の千家流の専門家にぶつけてみました。「どう教えている?」と聞いたら、「武家にとって左腰は帯刀のためのところだから」と、同じ答が返って来ました。通説は、やはり存外広まっているのでしょう。千家は何故左に付けるかという説明は、特にしていないようです。それが自然、本来ということなのでしょう。では宗旦以前、たとえば利休はどうだったのか、本当に右腰につけていたのか、さらには紹鴎、あるいは茶祖珠光はどうだったのか、何の資料もないようです。利休が本当に右腰に帛紗を付けていたか、左だったかは確証はありません。宗旦が左利きだったという伝承も「槐記」以外には見当たらないのでは

ないでしょうか。近衛家熙は、宗旦が死んだ10年後に生まれた人で、「槐記」は宗旦死後、6、70年後に書かれたものですから、勿論、家煕は宗旦と面識もなく、左利きは伝聞に過ぎません。かといって、この伝承が間違いだと決めつけることも出来ません。

 考えてみると、帛紗は本来は右腰に付けるものだったが、たまたま流祖が左利きだったので、それから左腰につけるよになったのだという由来じゃ、理由として権威に欠けるような気がします。千家流で、この話を積極的に語ろうとしないのは当然とも言えますし、千家流が圧倒的に多い茶の湯の世界では、宗実宗匠が主張される、後世に出来たという帯刀との関連だというのが通説になっているのも、無理はないのでしょう。右か左か、せっかく定着して何の疑問もなく行われている作法の由来を、ほじくり返すのも意味がないよとと言われそうです。

    萍亭主