前にも書きましたが、明治大正の数寄者の会記を読むと、乾山がよく出てきます。
数寄者間に人気があったようで、懐石の器、薄茶碗や、たまに寄付きなどの軸(絵画)に用いられるのですが、果たして、全部が本物ばかりだったか。一流道具商の入っている数寄者の場合でさえ危ないこともあるのに、その下のクラスには、大分おかしな乾山が出回る事もあったでしょう。仁清も贋物が多いと言われますが、仁清の方が乾山よりは、本物と贋物の差が大きいという説もありますが、どんなものでしょう。
高橋箒庵は、大正茶道記の記事で、嘉納鶴庵の茶会に招かれた際、午餐を供された書院に乾山の鮎川の絵が掛かっていたが、その絵の印が「紫翠深省」(乾山の号)でなく「紫翠真省」とあるのを、「あまり見受けぬ珍しいもの」という表現で、やんわりと、贋物だねと表現しています。
小林逸翁も、こんなことを書いています。箱根に数寄者たちが避暑をしていた折、三井泰山(守之助)が、手に入れた乾山の茶碗を披露するための茶会を開き、塩原禾日庵(又策)が、招かれました。ちなみに茶人としては、泰山の方が先輩です。ところが、招かれた塩原は、一向に茶碗を褒めない。そして、失礼ですが、私も乾山で一服差しあげたいと言って、翌日、乾山の軸と茶碗を持ってきて、茶を点てました。そして「乾山の落款、書き入れは、御覧の通り、軸も茶碗も寸分違わない、筆力雄渾で、この手でないと面白くない」と、暗に昨日の茶碗と比べてどうですか、真贋は如何と謎をかけたわけです。泰山は黙って何も言いませんでしたが、塩原が帰ると苦笑して「落款二つが同じだからといって、贋物二つは念が入りすぎる」と吐き捨てました。一座の人は挨拶に困ったでしょうが、二日続けて詰めていた道具商の一人が「いや、いずれもご名器で。ご承知のように、元来、乾山は八十まで長生きし、四十過ぎからは不遇で、住まいも定まらず、京、江戸、上州と転々し、違う窯で違う土で作っておりますから、乾山をご覧になる秘訣は、本人が精神込めた乾山作と、商売として濫造せざるを得なかった乾山焼と二つ種類があるのですから、どちらも乾山のものに間違いないわけです。しかし、お買い上げの際には、ご研究が必要だろうと思います」と、双方にケチがつかないような言い方で、その場はおさまったということです。その茶会に出て、この話を逸翁にした人は「実際は、あれはどちらが本物でしょうか」と、首を捻っていたというのですが、難しい話で、触らぬ乾山に祟りなしなのかも知れません。
萍亭主