前回、関口宗貞について触れましたが、それより以前の明治20年に家元に成った女性がいます。細田宗衛です。

 しかし、彼女の話をする前に、やはり前回取り上げた脇坂安斐のことをまとめておきましょう。脇坂氏の先祖は、豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の中に数えられる、脇坂安治です。安治は関ヶ原の戦いで、徳川方に内応したため、淡路の所領を安堵され、大名として存続しました。家は伊予大洲、信濃飯田と移った後、3代目から播磨龍野六万石に定着し、明治維新まで続きました。江戸後期の10代安董は寺社奉行、老中として、大奥粛清などに手腕を振い、その子11代安宅も京都所司代、老中を務めました。この安宅が茶の湯を好み、宗徧流を学んだことで、宗徧流との繋がりが生まれます。師は不審庵山田家ではなく、後述の時習軒系だったようです。ちなみに安宅は、京都所司代時代、御所の再建に尽くしたという功で、孝明天皇から茶室を下賜され、その茶室縮遠亭は、龍野に移築され現存しています。養子の12代安斐も父の影響か、宗徧流を学び、流儀の実力者、後援者となったことは触れた通りです。大正から昭和にかけ、京都に宗徧流を広めた座光寺宗是は安斐の一番弟子だったといいます。さて、その安斐が、明治天皇に初めて献茶をしました。明治10年、内国博覧会の会場で、天皇は椅子に座り、安斐はフロックコートで、点茶をしたのだそうです。この時、半東に女性を起用することとなり、選考の末選ばれたのが、当時まだ14歳の細田伊登でした。伊登は、菓子屋榮太棲の娘で、すでにかなりの茶の素養があったようです。そして明治20年、24歳の若さで、宗徧流時習軒の家元を継ぎます。時習軒は、山田宗徧の弟子、岡村松伯が祖で、以降、血筋でなく、門弟によって継承され、神谷宗見、水谷義閑など高名な茶人が出て、江戸では勢力があり、不審庵山田家の分家格と見られました。明治4年、7代吉田宗賀が歿して空位だったのを、宗賀の未亡人の要望で、伊登が継ぎ、宗衛と名乗りました。何故、女性に継がせたか、彼女は茶人として男性に遜色ない技量を備えていたと言われますが、それだけの理由なのかどうか明確ではありません。残っている茶会記なども私は一つしか読んだことがなく、茶風もよくわかりません。ともあれ、宗衛は第二次大戦中に歿し、跡を娘が継ぎ、その後は、榮太棲の当主が代々を継いでいますが、風の噂では、今の代で、流儀を閉じるというのは本当でしょうか。

 同じく、明治時代の話ですが、江戸千家浜町派と呼ばれた川上蓮心宗順は、多くの数奇者を指導したことで知られます。宗順が明治41年に歿した時、跡を継いだのは次女の素蓮でした。彼女はその後23年間茶の湯を教えましたが、自分を家元と思ったか、そう称したか不明ですが、この系統が、戦後、表千家不白流と名乗って復興された折、6代家元に列せられたので、公認の家元となりました。ちなみに、跡を継いだ時は45歳であったようです。

 他に昭和戦前、家元を称した女性に、岸田蓁(しげる)がいます。洋画家岸田劉生の妻で、あの「麗子像」のモデルになった少女の母親です。画家でもありましたが、夫の歿後、川上不白の弟子川上渭白の起こした江戸千家渭白流を学び、6代川上渭白を称しました。渭白の血筋は明治の4代で絶えたようですが、岸田蓁はその孫弟子であったようで、経緯は分かりませんが、流儀を再興した感じと言えます。昭和39年に歿し、以降は岸田家が継いで、現在9代(男性)のようです。

 女性で、流儀を創始した人もいます。江戸千家8代一元斎に学んだ森山宗江は、戦後、大谷米太郎など財界人の支援を受けて、都千家を創立し、初代家元となりました。従来なかった点前の創作などもあるようですが、私は詳しいことはわかりません。

 以上、皆、小流派なので、関係者以外、興味もおありではないかとも思いますが、茶の湯に尽くしたこういう女性家元もいたということを、ちょっと書いてみました。

  萍亭主