茶の湯の女性の家元は、昭和以降が増加するのですが、男尊女卑の明治時代にも、女性の家元は誕生しています。
いずれも宗徧流系で、今はその名を知る人も少なく、茶道史の上でも顕著な活動があったわけでもありませんが、こぼれ噺として書いておきます。実はこのブログの2019年2月8日から、数回に渡りこの辺のことは書いたので、重複しますが、既読の方はお許しください。山田宗徧の血統は、5代宗俊まで続くのですが、宗俊には男子がなく、娘婿に迎えた宗弥が後を継ぎますが、宗弥は主君小笠原侯の怒りに触れて追放されてしまいます。しかし名家である山田家の名が藩内から絶えるのを惜しんだ殿様の命で、宗俊の高弟が山田家の名跡を継ぐことになります。これが前回書いた6代宗学です。宗弥は妻と共に江戸の街中で茶の湯を教えて暮らしますが、明治7年に亡くなります。この宗弥は、今の宗徧流不審庵では、歴代に数えていません。宗弥の一人娘の綾は、静岡県初代県知事の関口隆吉と結婚します。そして、その長女操が、周囲から推されて、宗徧流不審庵の家元を継ぐことになります。明治25年のことです。この時期、前回書いたように、山田宗学の未亡人宗寿も歿し、後継者の宗有も茶の湯から離れて外国に滞在中で、流儀の中心がないことを案じた関係者が多かったのでしょう。操が選ばれたのは、宗徧の唯一の血筋ということは勿論ですが、関口家には男子も居たのに何故女性が選ばれたのか。既に彼女にそれなりの茶の湯の素養があったからでしょう。操は茶名を宗貞と名乗り、8代不審庵を称します。この系統では6代が祖父宗弥、7代が脇坂安斐と数えるのです。脇坂安斐(やすあや)子爵は、播磨龍野藩の最後の殿様で、宗徧流を学んだ茶人であり、流儀の大スポンサーでした。宗寿の歿後、一時、宗徧流の家元を預かったのだとも言われます。宗貞の襲名は、安斐の存命中ですから、当然彼の承諾、バックアップがあったのでしょう。しかし、宗貞の家元としての活動は、実際には資料がなくよく分かりません。そして7年後、理由はわかりませんが、宗貞は弟の壮吉に家元を譲ってしまいます。その13年後、明治45年に48歳で歿します。逆算すれば、家元を名乗った時は28歳だったのです。
関口壮吉は茶名を宗理と言いますが、本業は教育者で学校長、理学士でした。どのような茶の湯活動をしたか不明です。どうも、実際は宗弥の弟子であった中村宗知という茶人が活動していたのではないでしょうか。この中村宗知に、関口宗理は大正4年に、家元を譲ります。これで宗徧の血筋は、茶の湯から離れることになりました。高齢の中村宗知は、大正5年に死去し、その後は、宗知の弟子で、華道の東池坊を創立した岩田宗栄が継ぎます。その宗栄の長男の嫁に来たのが、前述の脇坂安斐の孫娘でした。そして彼女(茶名宗龍)が宗栄の跡を継いで家元となります。これは脇坂家との約定によるという話もありますが、ともかく、ここでまた女性の家元が出来たわけです。これは昭和5年のことですが、以後この系統は三代女性の家元が続き、いろいろあったものの、現在は宗徧流正伝庵と名乗り、華道東池坊の家元を兼ねています。ちなみに現在の家元は男性です。
関口宗貞が不審庵を継いだのより、5年早く、明治20年に家元を継いだ女性がいます。これも宗徧流系なのですが、話が長くなりそうなので、次回に。
萍亭主