女性茶人の話に戻りますが、茶の湯世界で、女性の家元が誕生したのは、いつからなんでしょう。
現在、女性の地位は上がる一方ですから、いろいろな世界で女性の当主がいるのは、珍しくもなんともありません。茶の湯の世界でも例えば千家十職でも、中村宗哲、黒田正玄、飛来一閑などの家は、女性が継いでいますし、陶家の高橋道八、諏訪蘇山などの家もそうです。第二次大戦以前は、戸籍法上も戸主に女性はなれなかったので、例えば、永楽家では、14代得全が死去した後、未亡人の悠が、家業を守り、三井家から妙全の号を受けたものの、死後、歴代の中には数えられず、代外とされていますが、今なら立派に15代として認められていたでしょう。昔は家元は男性と決まっていたものですが、今では女性もさほど珍しくなくなりました。邦楽、日舞、華道の世界では、比較的早く女性の家元が誕生したようですが、茶の湯の世界では増加したのは昭和以降のように思います。現在、茶の湯の女性家元は、私が直接知っているところでは、式正織部流、石州流宗猿派などですが、宗徧流四方庵、東千家、都千家如水会なども女性家元のはずですし、他にもまだ居られるかと思います。比較的小流派が多いのですが、今の世の中、将来大きな流派でも女性家元が誕生することが全くないとも言い切れません。さて、女性家元の初めは誰なのか、どうも、宗徧流7代に数えられる山田宗寿がそうではないかと思われます。宗寿は、6代家元山田宗学の未亡人で、唐津藩小笠原家の茶道役であった夫が幕末の文久3年(1863)に亡くなると、茶の湯教授をして家業を守りました。元々本拠地は、流祖宗徧と同じ江戸でしたが、明治維新の混乱期に唐津に移り、その地に宗徧流を広めました。明治13年に東京に戻り、日本橋浜町で茶の湯を教えましたが3年後の明治16年に66歳で歿しました。宗学と宗寿の間には子供がなく、明治になってから上州沼田の中村という家から、寅次郎という養子を迎え山田家を継がせました。ただ寅次郎は茶の湯をやらず、実業界に身を置き、大正12年に不審庵8代を名乗り宗徧流再興、大同団結を呼びかけるまでは、茶の湯をしなかったので、宗寿死後、40年間は山田家は茶の湯と縁がなかったわけです。この辺の事情は、当ブログ2019年2月8日の「寅さん奮闘す」などで詳しく書きましたので省略しますが、寅次郎が不審庵8代外学宗有を名乗り、宗寿を7代としたことで、宗徧流の公式見解となり、茶の湯世界での認識となりました。宗徧流系の資料によれば、宗寿の門人には、長岡藩主牧野備前守、村上藩主内藤紀伊守という大名、加賀藩主の内室、牧野家や前田家の奥女中たちという女性や、不器庵宗中、不二庵宗園など現在ではよく分からない大勢の男女の名前が挙げられています。大名まで教えていたとすれば、茶人としての技倆に優れていることを認められていたのでしょう。しかし、本人が「自身を家元とか、宗徧流不審庵7代と考えていたか」というと、私は疑問に思っています。夫が亡くなって20年の間、山田家を守るとか、茶の湯を教えるのが好きとかいう気持ちはあったとせよ、自分は家元であると思ったり、公言したりしたかどうか。自分名義の許状は出しているのだろうと思いますが、実物の許状を見たことがないので、もしかしたら、故人の代理という名義で出したりしていないかとも思います。
宗徧流では、外学宗有が昭和32年に歿した時、遺言で、何故か長女の宗白が9代家元を継ぎました。流儀で二人目の女性家元誕生です。宗白は、この時期にはかなり大きくなっていた宗徧流の家元としての活動をしっかりとこなし、7年後に弟の宗囲(後に改名して宗徧)に10代家元を譲り、庵老という称号で活動しました。今の宗徧流の関西の地盤は、宗白の活動のおかげもあると思われます。
萍亭主