即日庵戸田宗安こと戸田勝久先生が、九十才で亡くなられました。

 裏千家の業躰というより、学者としての面の印象が強く、武野紹鴎研究の第一人者、南方録や、利休、あるいは茶道史に関する多数の著書があり、茶の湯文化学会の副会長も務められて、大学教授でもありました。私は、ある事から、京都の谷端昭夫先生のご紹介で、戸田先生のカルチュアでの講義に伺い、ご挨拶した時に「茶の湯文化学会に入りなさい」と勧められ、学者でもない素人がと尻込みしたのですが、「素人でも茶の湯に興味があれば構わない」と、半ば強引に入会させられました。その後、学会の例会でお目にかかるのが通例になり、御自宅にお伺いして、お話を伺ったことも三、四回ありました。学会の役職を後進に譲られてからは、例会にお見えにならなくなったので、自然、お目にかかる機会がなくなりましたが、毎年歳末にはお玄関先までご挨拶に伺ったものです。もっとも、お忙しくてご不在の時が多く「京都の家元に歳暮のご挨拶に行っているので」など聞いて、大変なんだなと思ったものです。歳末に直接お目にかかったのは数回でしたが、その度に著書などを下さり、恐縮したものです。ご自宅で最後にお会いした時は、上がってしばらく面談している時、宅配がベルを鳴らしたのを、私が告げると「君はよく聞こえるんだな、最近、耳が遠くなってね」と、嘆かれたのを覚えています。その後、あるパーティで お会いした時も、確かにその印象はありました。最後にお会いしたのは、六年前でしたか、護国寺で、即日庵一門の恒例の茶会があり、たまたま席主の一人が妻の知人だったので招待され、戸田先生の本席にも伺い水屋でご挨拶しました。その会で、草蕾庵で先生が正客をされたときに、たまたま次客になったので、久しぶりに会話をしましたが、正直、衰えられたなと感じたものです。コロナ以来、ご挨拶にも行かなくなり、風の噂で、入院されているらしいと伺ったのですが、訃報に接することとなりました。

 印象に残っているのは、何かの話で共通の知人の編集者の名前が出た時「あの人は、どこの大学出身かね?」と訊かれ、さあ?と言うと、「僕は人に会うと、どこの出身か気にする癖があってね」と言われたことです。先生は慶應大学の出身でしたが、それに強い誇りと愛着をお持ちのようでした。戸田家は、尾張徳川家に仕えた武士で、先生の高祖父は、幕末、小納戸役を勤め、職掌柄、数奇屋組頭日比野知玄斎と交わり、裏千家流茶道と美笑流花道を学び、曽祖父正覚は、明治維新後、東京に出て日本橋茅場町で美笑斎一楽と名乗り、茶と花を教えたといいます。茶家として確立したのは、祖父宗見の代で、宗見は正覚の知人田中宗卜と当時上京した円能斎に学び、即日庵順能斎と号し、裏千家名誉教授となります。美笑流家元も称し、護国寺に円能斎顕彰碑を建てたことでも知られます。先生が十歳の時亡くなられ、父の宗寛が跡を継いで、淡能斎と号し、業躰となり、名誉教授、今日庵家老職までなりました。「裏千家茶道入門」などの著書があります。先生が当主となられたのは、昭和57年のことでした。尾張以来のこの茶家の系譜も、先生の誇りであったように感じられます。考えてみると、私は学者としての面ばかりを見て、茶人としての先生のことを、ほとんど見ておらず、一度、テーブルで自作の茶碗で一服点てて下さったのと、前述の護国寺でご一緒した折くらいが思い出ですが、一度玄関まで伺った際、稽古中だったか和服で現れ、座って一礼された、そのお辞儀が、実に正しく綺麗で、さすが茶人と感心した覚えがあります。学者としての先生は、多くの人が語られると思いますが、私のような素人には、いささか読みにくい難解な表現があることも事実です。

 先生は護国寺と深い縁があり、寺の月報に記事を寄せられ「護国寺物語」という本も出されているので、もしかしたら、護国寺で御葬儀と思ったのですが、即日庵が境内にある麹町心法寺で今日行われます。コロナ対策解禁の時節、公開で葬儀が行われるようなので、私もこれからお伺いするつもりですが、謹んでご冥福をお祈りいたします。

  萍亭主