茶道具にはなにかと逸話があるものですが、茶入や茶碗ほどでなくとも、花入にも多少の逸話はあります。

 天正15年(1586)夏、千利休が、秀吉の九州征伐に従軍した帰途、摂津尼崎の藪内剱仲紹智を訪れ、一服所望し、入浴した後、何か花はないか、生けよう、と言い出します。紹智が、暑中で、庭に姫瓜の花が咲いているが、生けられそうにも思えず、その外には何もないと答えると、利休は「のう紹智、昔は花なければ、笹の葉ばかりも生けたることよ。それ生けなん」と言って起ち上り、自ら庭に出て、一枝切って、カネの花入に、姫瓜の蔓が床の縁まで延びるように生けたのが、実に麗しく、見事で、感動した紹智はこの花入に「姫瓜」と銘を付けて秘蔵し、藪内家が京都に移っても大切に伝えられた。これ、「茶話指月集」に載る話で、ご存知の方も多いでしょう。この象耳古銅花入は、今も燕庵名物として、藪内流家元の大事な茶会に用いられ、美術展で展示されたこともあります。元々は足利義政の所持で、所謂、東山御物の名器だということです。

 明治大正の三井系の数奇者、朝吹柴庵(英二)は、粗忽なことでも有名でしたが、茶道具の知識に深く、鑑定に優れていることでも有名でした。柴庵は明治30年前後、無名の道具屋から、水戸徳川家伝来の大名物、古銅「青海波」を掘り出します。数奇者仲間でこの噂が広がり、それを一見した益田鈍翁が惚れ込み、譲ってくれと頼みますが、道具の保有にはさほど執着しない柴庵も、こういう名器にはそう出会えないと、何度も断ります。しかし結局譲渡を承諾し「嫁入りは目出度けれども親心嬉しくもあり悲しくもあり」という狂歌を添えて、永い秘蔵を願って贈ります。背景には、当時の三井財閥内の微妙な権力均衡問題が絡んでいたとも言われます。この話は、高橋箒庵や藤原銀次郎が「青海波古銅花入事件」として書き、当時の茶の湯世界で有名になりました。ちなみに鈍翁は柴庵の追善茶事に、この花入を使っています。

 こんな話もあります。幕末、二度にわたり京都所司代を務め、攘夷派志士の弾圧で知られる、若狭小浜藩主酒井忠義は、茶道具の蒐集家で、何でもかんでも呑み込むように手に入れるので、大鰐の異名がありました。徳川将軍家に「吉野山」という銘の青磁花入があり、何かで見た忠義は、これを欲しいと思いますが、将軍家の所有では、おいそれと手が出ません。その頃、和宮の将軍家降嫁問題が起き、京都所司代として関わった忠義は、降嫁成立の祝儀として、幕府から朝廷に花入を献上するよう工作します。朝廷の内意とでも仄めかしたのでしょう。花入は朝廷に献上され、忠義は昵懇の公家に運動して、所司代として降嫁という公武合体に、周旋尽力した褒賞に、青磁花入の下賜を願い、花入は首尾よく、酒井家の所有となりました。さてこの話が講談種なのか、本当なのか。この辺に詳しいY先生にぉ尋ねしてみると、青磁花入が幕府から朝廷に献上されたのは和宮降嫁の折でなく、孝明天皇即位の折のことで、ちゃんと記録があるそうです。その後、酒井家の所有になったことは事実ですが、不思議な事に、その記録がない、他の道具の出入にはちゃんと記録があるのに、何故か、これだけが記録がないのだそうです。隠さねばならない事情があるとも思えず、調査中とのことでした。この花入、現在は梅沢記念館にあるそうです。ともあれ、将軍家から天皇に即位の祝儀(おそらく献上金の台の物でしょうけれど)として贈られる品ということは、花入も馬鹿にならない格があるということです。

   萍亭主