先回の繋がりですが、利休の文、つまり、消息(手紙)の軸は、昔から茶会で、よく使われています。

 昔の会記を集めた「古今茶湯集」を眺めると、有名な「むさしあぶみの文」とか「椿の文」のように題をつけて書いてあるもの、「古田織部宛」などで宛先や「歌入」と注記のあるもの、ただ「利休の文」と書かれているものなど、幾つも出て来ます。ところが、文(消息)でない表記のものがあるのを二つ見出しました。現在、利休の軸で、消息以外のものは、相国寺所蔵の一行物だけと書きましたが、昔は、他にもあったのでしょうか?それは、文政8年(1825)10月6日に、表千家九代家元了々斎が、久田宗也や楽了入を招いた正午の茶事で、濃茶入に棗を使うような侘びた席です。その時の不審庵の床が「利休居士筆 緑苔の詩」とあります。詩入りの文というわけではなさそうで、自作か古人の作かはわかりませんが、漢詩を書いたものという意味でしょう。五言絶句か七言節句を書いたものなのか、坊さんの書いた軸にそういうのもありますが、想像を逞しくすれば、詩の中の一節、あるいは数語だけを書いたものだとすると、相国寺の軸と同じ形式になります。そういうものがあるとすれば、相国寺の軸への見方も変わってくるのかも知れません。この「緑苔の詩」の軸は、もう一度、会記に出て来ます。明治23年7月22日に、表千家十一代家元碌々斎が、下関の山本源左衛門という門人に対して、台子相伝の式を行った時、祖堂の床に、この軸が掛けられています。相伝引渡しが済んでから、広間の残月亭で懐石と薄茶があり、こちらの床には吸江斎筆の「的伝」が掛けられています。的伝とは、茶祖以来の宗匠の名を書いた物で、相伝に相応しい軸ですが、これを本席に掛けず、「緑苔」の軸を掛けているのは、これが重いものという認識なのか、それとも内容なのかは、ちょっとわかりません。いずれにしろ、この軸は、明治までは表千家にあったわけですから、現在も表千家にあるのか、私は表千家のことを殆ど知らないので、何とも言えませんが、有れば、すでに学界でいろいろ取り上げられているだろうと思うのですが。もっとも私の知識は低いので、これが詩入りの文ということで、もうどこかに紹介済みだったりすると、この記事自体お笑い草ですが。白状すると、私は小松博士の「利休の手紙」も、若い頃、図書館から借りて一読しただけで、深い知識もない有様なので、どうこういう資格も実はないのですけれど。今日は、この辺で。

   萍亭主