先週の茶の湯文化学会東京例会のもう一つの研究発表は、備前焼の茶入「布袋」に関するものでした。
学習院大学大学院の博士課程の研究者のご発表で、現在、表千家所蔵の茶入「布袋」、これは、天正十五年に、利休が九州筥崎での茶会に使用し、「袋(仕服)ばかり立派なので、布袋と銘を付けた」と語ったということが、「宗湛日記」に載っていてます。それが16世紀後半から17世紀前半、どう伝来、賞翫、受容されていたかを、松屋会記、茶道四祖伝書、一黙稿、茶の湯秘抄、随流延紙の書など文献を駆使して論証するということで、いかにも学者らしい、ちょっと難しい(忌憚なくいうと少し大仰な)表現で語られました。乱暴にかいつまむと「この茶入は唐物肩衝を模して作られた、似ていない部分もあるが、胴紐があるのは、他の備前焼に類例がなく、唐物を意識したと思われる。利休は、これに白地金襴の仕服を添えたが、これは唐物茶入に一番多く用いられた裂地で、つまり、当時稽古道具だったという説もある備前茶入に、唐物と同等の格式をあたえたのである(これが眼目のようです)。利休の死後、慶長年間には伏見の太田美作に伝来し、この頃には、銘の由来もきちんと伝承されている。伝来は、鵙屋を経て堺の伊丹屋に伝わり、利休の孫の宗旦は依頼されて箱書をし、春屋宗園は、布袋茶入の偈を作って、利休所持の道具として確定した。利休の玄孫随流斎は、伊丹屋で布袋を実見し、その記録を残しているが、銘の由来については、ありあわせの袋がぴったりはまったので布袋と名付けられたと、違う説を書いているので、この頃には、千家に布袋に関する伝承が途絶えていたのではないか」というような事であると思います。発表後、備前焼茶道具の研究者の女性から、唐物を意識した作というのは賛成だが、稽古道具だという説は、備前焼茶入というものは非常に数が少ないので、稽古用とは言いにくい、という指摘がありました。また、唐物と同じ格式を付与したというより、一つの趣向として楽しんだのでは、という見解も出されたようです。いずれにせよ、器物一つを取り上げて、格別新発見の資料がなくても、いろいろ論考出来るのですから、さてさて、茶の湯に関する事は幅広く、奥の深いもので、最近、研究者が大勢いるのも納得という感じです。
さて、布袋茶入に関しては、その命名の由来などを、何故か私も妙に記憶していて、それだけ、面白かったのかも知れませんが、原典で読んだか、誰かの孫引きの方で先に読んだか記憶がありません。実物は、見た記憶は残っているのですが、どこで見たやら、多分あれかと、図録を引っ張り出して調べたら、やはり利休四百年忌展覧会(京都国博)でした。ところで、現在は表千家所蔵と言いますが、いつ、表千家に入ったのか。大正名器鑑には、大阪の上野理一(朝日新聞社主)所持と出ているということで、それ以降だとわかりますが、改めて、四百年忌展の図録をチエックすると、布袋には、まだ不審庵所蔵の記載はなく、え、これ以降、つまり平成2年以降に表千家に入ったのか、昭和時代でなく平成時代、意外に近年のことなんだなと認識を新たにいたしました。
萍亭主