質素倹約は美徳である、と、された時代もありましたが、今はどんなものなのでしょう?

 プラゴミを出さないようにするとか、エコな生活をを目指すというのも倹約の精神なのかもしれませんし、質素な暮らしがなくなっているとも思いませんが、どうも今、生活が苦しいから止むを得ず質素にしているという人が多い時勢なんじゃないかと思います。侘び茶の湯の精神は本来は、質素だったろうと思いますが、現代の茶の湯の中に質素さを見つけるのは、なかなか難しいかもしれません。閑話休題、例の「茶道美談 風流の友」にこんな話が載っています。八代将軍吉宗が、ある日、ふらりと殿中の御数奇屋坊主の詰所にやって来た。数奇屋坊主は、いわゆる茶坊主で殿中に詰めている大名や役人の休憩時の湯茶の面倒を見たりする役です。普段、将軍など現れぬ場所なので、皆驚き平伏していると、吉宗は「茶を飲ませよ」というので、慌てて点てて小姓に渡そうとすると「よいよい」と吉宗は直接受け取り、一服した。その茶碗は、金で葵の御紋が描いてある品でしたが、吉宗は飲み干すと茶碗を眺めて一言「常の調度には」と漏らすと帰ってしまった。数奇屋坊主達は、吉宗が、普段使いの器として贅沢だと言いたかった意を察して「爾今(以後)尋常(普通)の高原焼を用ゆることとせり」という話。節約家だった吉宗の面目躍如であると筆者は評していますが、別にこれだけの話ですけれど、私が面白かったのは、江戸城の普段使いの茶器が高原焼だったということです。筆者も「江戸幕府は陶窯を置かず、元禄年中(これは承応年中などの誤り)、片桐石州の推挙に依て陶工高原藤兵衛を摂津より呼び下し、浅草本願寺前に一町四方の宅地を与え、其地内にて茶碗を作らしむ。之を高原焼と曰い、又浅草焼と呼ぶ」と付言しています。確かに幕府は、御三家や他の大名家のように、お庭焼というような窯は作りませんでした。高原焼は、たまに展覧会などに出ますが、高麗・御本写しが主の茶碗で、最近の「茶の湯の茶碗・和物茶碗Ⅱ」(淡交社)には、滴翠美術館所蔵の、いい感じの呉器写しが掲載され、高原焼の解説も出ていますが、従来の辞典などにかかれている以上の説はないようです。「高原藤兵衛は熊本高原郷出身で、大坂に出て窯を開いた」とか、「高原市左衛門が慶安年間大坂で始め、二代目は江戸に出たがまた大坂に戻って、四代目が天王寺に移り、後には楽焼を焼いた」とか、「隔冥記」の記録などから「高原五郎七という陶工が存在した」とか、「五郎七は朝鮮出身で、豊臣家に仕え大坂陣の後、熊本に逃げた」とか、「三河内で磁器の焼成に携わった」とか、種々の説が錯綜して、捉えどころがありません。とにかく遺品が少なく、銘も印もないので、他に紛れてしまうのかも知れません。幕府の職員録である武鑑には、御茶碗師として「浅草門前町 高原次郎右衛門」が明治維新まで掲載されていますから、それまで業を続けたのは確かで、遺品が少ないのは、江戸城に納めるだけで流通が少なかったか、普段使いの品として大切にされず粗末に扱われた結果か、江戸城や江戸の町の度々の大火で失われたかなのでしょう。ちなみに武鑑には、他に御茶碗師として「紺屋町 茶碗屋瀬戸助」の名があり、こちらは、汲み出し碗、煎茶碗などを納めたようです。武鑑には載りませんが、京の粟田口の窯元錦光山が、幕府に茶碗を納めていたと伝わります。無駄話になりました。また次回。

    萍亭主