先回の話に出て来た、九鬼文琳の所有者堀田正陳は、延享4年(1747)、ある事件に巻き込まれます。

 その年の8月15日、江戸城内で、熊本藩主細川宗孝が、旗本板倉勝該に斬殺されます。原因は、人違い説、遺恨説などありますが、板倉勝該は切腹の刑、そして彼の従兄弟であったため、当時の連座制で、堀田正陳は謹慎処分を喰ってしまいます。さて、この事件に関連して茶道具に関する逸話が「茶道美談 風流の友」に載っています。事件当時、笠間藩主牧野貞道は、この件に関し大いに周旋するところがあり、その謝礼として、細川家から、先祖幽斎愛蔵の品であった「白雲」という茶壷を贈られたというのです。周旋がどういう意味かわかりませんが、事件後の処理が、細川家の不利にならないようう政治的に動いたというようなことでしょうか?大名の変死は、お家の存続に関わる一大事ですから。宗孝は城中で息を引き取ったのですが、大御所吉宗の内意で、存命ということで屋敷に搬送され、六日後に死去が公表され、末期養子が認められて、細川家は危機を免れたと言われますが、この間に牧野貞道が働いたのでしょうか。ともあれ、茶壷は牧野家の重宝になりましたが、事件から半世紀以上経った頃、細川家から、「あれは当家にとって重要な品で、正式の茶会の折など、なくてはなわぬものなので、どうかお返し願えないか、もしご承諾頂ければ、一万金を差し上げたい」と懇願されます。当時笠間藩は、財政が逼迫しており、重臣達は、この話を「しめた」と思って、早速殿様に許可を言上します。当時の殿様は、貞道の孫の貞喜でしたが、それを聞くと「細川家にとって、それほどの重宝ならば、早速返還するがよい、我が家になくても何の差支えもない。但し、我が家も小さいとはいえ(細川家の7分の1強の所領です)、大名である。他人の宝器に依って、大金を得るのは、甚だ潔くない。報酬は固く受けてはならない」と命令して、すぐに返還させたということです。重臣達は当てが外れたでしょう。「茶道美談」の筆者は、これを「恬淡として利欲の念がないのは立派」と称賛しているのですが、茶道具に欲をかかない、これは、現在でも、先回の話より少しはわかりよい美談かもしれません。しかし、何故報酬を得ちゃいけないのとか、そんなに見栄を張らなくてもいいのにという声が聞こえそうな現代でもあります。貞喜という殿様は、種々の施策により藩政を立て直し、中興の明主と言われた人なので、それを際立たせるための話かも知れません。ちなみに笠間焼を興させたのは貞喜だそうで、茶の湯も好み、挿花、聞香、和歌、謡曲、蹴鞠など、あらゆる風流事に堪能で、特に俳諧は隠居後句集を出すほどで、「振り向くは泣く子の親か田植笠」の句が名高いとされます。また、事件の頃、牧野貞道は、幕閣の中枢にはいましたが、当時、京都所司代を務め、江戸にいなかった筈なので、細川家のために、どれほど周旋出来たかも疑問ではありますし、やはりかなり講談ぽい話とは感じます。白雲という茶壷は、「茶話指月集」の下巻巻頭の記事に、天正14年、大坂で利休が家康に茶を点てた折、秀吉から家康に白雲という真壺(茶壷)が贈られたとあり、それは、慶長12年12月の駿府城火災の折に焼けてしまったと「徳川実紀」にあります。細川家の白雲は同名異物なのか、現在でも存在するのか、永青文庫にでも問い合わせれば、何か分かるかもしれませんが、さすがに講談臭い話に、そこまでするのも面倒臭くて。

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 萍亭主