先回の続きですが、夜討の銘の茶杓が、講談的説話で伝えられる、茶人大名松浦鎮信の作ではなく、茶の湯世界では無名の鎮信の次男、昌の作だという話。
私が、この説に妙に納得したのは、こういう理由です。昔、いろいろと、江戸の旧跡を廻っていた頃、平戸藩の下屋敷跡にも行ってみました。現在の墨田区東駒形3丁目の区立本所中学校の敷地がそれで、同じ本所で近所とはいっても、吉良の屋敷とはかなり離れています。討入りに陣太鼓は鳴らさなかったという史実は、今や常識なので、剣戟の騒ぎだけで、ここまで聞こえるだろうか、当時は音を遮蔽するような高層建物もなく、自動車などの騒音も全くないとはいっても、これ、遠すぎないかという気がしたものです。当時、松浦鎮信はもう八十歳で耳も遠かったろうにと、余計なことまで考えました。それに比べ、昌の平戸新田藩の上屋敷が、現在の墨田区横網の安田庭園の近所にあり、ここにも行ってみたのですが(ここは、本所七不思議の一つ、葉の落ちぬ椎があったとされ、案内板も立っているので行ったわけで)、ここの方が、距離的には吉良邸からまだ近く、ここならリーズナブルなんだがと思ったものだからです。
さて、ところが、このブログを書こうとして、念のため、同じ淡交社刊の「新編茶道大辞典」を引いてみて「あれ」と驚きました。こう書いてあるのです。「茶杓。松浦昌作。『甲子夜話』によると元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士が本所松坂町吉良邸討入りの夜、隣屋敷である平戸新田藩主松浦昌(松浦鎮信次男・分家)が剣戟の音を聞きながら、夜もすがら茶杓を削り、浪士本懐の報を聞くと、『夜討』と銘したとする」。前の「茶道辞典」と比べ、討入りの年の間違いは訂正されていますが、隣屋敷は依然全くの間違いです。しかし、何故、主人公が昌に変わり、前の辞典にあった「実在するかは不詳」という記事が消えたのか、実在が確認されたのでしょうか?実は私は若い頃、甲子夜話は一応読んだのですが、この記事に関してはどうも記憶がありません。しかし、両辞典とも「甲子夜話によれば」となっているし、「茶道美談」のネタも甲子夜話なんじゃないか、こりゃ原典を確認すればいいと思いました。膨大で索引もない中から探せるか不安でしたが、今は便利ですね、ネットを活用して、載っている箇所に、割と早く辿り着きました。読んで見ると「茶道美談」に載る話が、ほぼ、そのまま書いてありました。しかも、よく読むと、鎮信は、陣太鼓を聞いただけで、茶杓を削ったとは書いてないのです。分家では太鼓を聞いたのは昌だという伝承があるとした上で、石虎の実見談になり「その夜の作なので夜討という銘だと聞いた」と、はじめて茶杓の由来が出て来ます。「人に贈るので、銘をつけたのだろう。筒には何か書付があったらしいが、石虎は内容を覚えていなかった」という筆者静山の言葉は、「茶道美談」には抜けています。ついでに「茶道美談」は、石虎を呼んだ宴会は、分家の当主織部正良の時とありますが、原典では、一代前の大和守矩の時と明記されています。寛政から享和年頃のことでしょう。講談種風な話を、何をゴチョゴチョ言ってると叱られそうですが、細かいことが気になる悪い癖で。
いずれにせよ、「茶道美談」を読まなかったら、記憶している講談話のまま、他人に語り継いでいたでしょうし、わざわざ辞典類を引いて、30年の間に記事の内容が変わっているなんてことにも気が付かなかったままでしょう。辞典の編者も甲子夜話を読み直して間違いに気づいたのかもしれません(直り切っていない箇所もありますが)。伝承というものは、微妙に変化していって、そう正確には伝わらないもんだと今更思いますし、新しい知識を得たり、記憶を訂正出来るには、妙なきっかけがあるものだなとも感じます。
萍亭主