先回の続きですが、瀬田掃部の茶杓に関しては、「南方録」にこんな逸話があります。

 瀬田掃部が、高麗茶碗を持っていた。平たくて大きく、直径が畳十五目(21cm 強ほど)もある品で、掃部は利休に、これに銘をつけてほしいと願い、利休は「水海(湖)」という銘を付けて、その茶碗に載るような長い茶杓を削り、「瀬多」という銘をつけて与えた。茶碗の銘は琵琶湖を意味し、茶杓の銘は湖の傍の名所「瀬田(勢多)の唐橋」と、所有者掃部の姓を掛けたものです。喜んだ掃部は、この茶碗に晒し茶巾を仕込み、茶を点てて、利休からその作意を賞賛され、それが現在、夏などによく行われる洗い茶巾の点前の初めになった、そして、贈られた畳目十四目半の長い茶杓を手本に削るようになったなったので、掃部の茶杓は大ぶりのものが多い、という話なのです。

 以後、瀬田掃部の茶杓は長いものとされ、茶杓研究家高原杓庵氏の説によれば、平凡を嫌う心理から、この異常に長い茶杓が人気を博し、一時瀬田掃部ブームが起きた、しかし五十歳で死んだ掃部に、そんなに沢山茶杓はあるはずがなく、需要に応じて供給の必要から、沢山の偽物が作られて通用したというのです。高原氏によれば、掃部の茶杓に共筒はなく、あれば、字が何も書いていない、要するに伝承だけの品で、真作というには躊躇するものだといいます。ただ一つ、畠山記念館の創始者、畠山即翁が旧蔵の一本だけが、掃部の署名があり、筆跡から見ても間違いなく天正時代のもので、これは本物ということです。茶杓の幅は広く、長さは20cmと長く、箱を表千家九代了々斎が書き、蓋裏には「掃部茶杓 共筒は珍重々々」と書き付けてあるそうです。もう一人の茶杓研究家西山松之助氏の著書によれば、掃部の共筒茶杓は見たことがないとされ、代表作として、表千家六代覚々斎の追い筒で、一見して、南方録の記事を思い起こさせる大ぶりな茶杓とあります。櫂先は幅広いのですが、長さは18.5cmと長めではありますが、それほどでもありません。これは、陽明文庫の近衛予楽院家熙の茶杓箪笥に収められており、私も一度見たことがあります。私も長大なものという先入観があったのですが、予想ほどではなかったと記憶します。

 こういうことを言うと、叱られるでしょうが、覚々斎は、掃部死後、百年以上、了々斎は二百年ほど後世の人で、一体どの辺から、掃部の真作と判断したのか、南方録で植え付けられた概念のせいではないのか、聞いてみたいような気がします。近代数奇者の茶会記を読むと、時々瀬田掃部の茶杓が出てきますが、高原氏の説を思い出すと、ちと心配になります。

   萍亭主