ご存じの方も多いでしょうが「鶴の一声」という花入があります。
「茶道辞典」(淡交社刊)によれば、「紫銅鶴首花入。鶴の嘴ともいう。利休の愛蔵。(中略)天正十五年には、その息の道安の茶会に用いられ、慶長四年には安国寺恵瓊の茶会で用いられる。明暦の大火で焼失」とあります。後に出た「新編茶道大辞典」(淡交社刊行)には「明暦の大火」の前に「その後、将軍家に入り」の文が付け加えられ、更に「同名のものが幾つか存在し、その一つが徳川博物館にある」と書かれています。三十数年かの間に、研究が進んだのでしょうか。徳川博物館にあるという品は「茶道美術鑑賞辞典」(淡交社刊)に紹介されていて、その解説には「古銅細首花入。大名物」とあり、伝来は「安国寺恵瓊→千利休→柳営御物→水戸徳川家」とあります。
さて、昨日ご紹介した「茶道美談 風流の友」には、こんな記事が載っていました。室町時代から江戸時代初期まで生きて、百歳の長寿を保った江口専斎という人の談話をまとめた「老人雑話」という本によると、専斎は、利休の子息道安の茶に、五、六年も招かれたが、いつも鶴の一声という花瓶に花を活けて、ついに一度も掛け物を掛けなかった。「今時種々の器を列ねて華美を争うは、心入格別の事なり」、茶に対する精神が全然変わってしまったというんですね。専斎の百年の「生涯の間、茶道の好尚、著しく変化せしを知るに足る」というのが著者の言です。そして、この花入は、名物記にも載るもので、後に徳川家の所有となり、寛永五年二月十三日、将軍家光が、大御所秀忠を江戸城本丸に招いて茶会した折、家光の請いに応じて、秀忠がこの花入に黄梅を生けたというエピソードを紹介し、更に、この花入は、九代将軍家重が、次男重好が清水家(御三卿の一つ)を興した時に、これを与え、重好はこれを夫人貞掌院に与えたという話を紹介し、「清水家は、先代篤守の代に没落せり。此名器、今や何人(なんびと)の手に帰すらん」と結んでいます。清水徳川家は、明治32年に、家政破綻からの借金問題で、伯爵の位を返上し、当主は禁錮刑に処せられています。
この清水徳川家に伝わったものが、いくつかある同名の品の一つなのでしょうか。徳川博物館にある品の伝来が、茶道辞典で本歌だとする品の伝来と微妙に入り混じっているのも気になりますし、これは焼ける前に水戸家に下賜されたものなのか?とか、茶道美談の話を信用すれば、これも焼けずに伝わったのか?と疑問が広がります。ややこしい話です。おそらく、幕府は、本歌が焼けたあと、写しを幾つか作り、親族などに分け与えたのではないかと想像するのですが、どんなものでしょう?名器の伝来や由緒は、伝え間違いや資料による違いなど、よくよく考えると混乱する場合も多いのですが、ま、そこが茶の湯のファジーさなのかもしれません。いずれにせよ、鶴の一声が清水徳川家にもあったということは、初めて知りました。
ちなみに「鶴の一声」は、一般名詞化していて、この名で作られている花入(写しと言えるかは微妙です)が、近現代には結構あり、大寄せ茶会で、2回ほどお目にかかったことがありました。
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萍亭主