前回の続きですが、利休が茶の湯を教えて、どのくらいの収入があったか謎ですが、教えるだけでなく、他の収入はあったか?

 秀吉が利休に切腹を言い渡した時、罪状の一つに、新規の茶の湯道具を高値に売ったという事が挙げられることがあります。要するに、茶道具の世話をして、仲介料や売買手数料を取った、それも古い名物道具とかでなく、自分の好んだ、あるいは作らせたような新道具を法外な値で売ったとというのですが、真偽はともあれ、そこで利得はあったにせよ、それは骨董商、道具屋的な収入で、茶の湯の収入とも言い難いと思います。不当利得だとか、詐欺まがいだとかいう人がいたとしても、脱税とかいう罪でもなさそうで、本題とは関係なさそうです。茶の湯を教える以外に、茶事に人を招いた時に、収入があったんじゃないか?天下の利休に茶事に招かれたら、それは名誉でしょうし、誰でも喜んで行ったでしょうし、その時に、親疎の差はあれ、相応の挨拶の手土産くらいは持参したに違いないでしょうが、今のカルチュアー教室の稽古茶事じゃないから、いくらの会費でというわけはないし、決まった価格とか金銭というわけでは勿論ありません。ただ以前にも書きましたが(2021年7月5日のブログ)、利休は、「筆をくれたが、銀を添えてくれたらもっとよかった」とか「塩漬の雁をくれたが、あれはいらない。銀の持ち合わせがあったら、銀を頂戴したい。精を入れて銀を寄越されたい」など書いた手紙を残しているので、贈り物を貰う時は、物品より金銭を好んだかも知れませんが。だからといって、そういう茶の湯の収入を生活費の基礎にしたとかいうことは、無論あり得ません。

 茶の湯の収入で生活するということは、珠光の時代から明治維新まで、基本的にはなかったとも言えます。利休七哲とか、織田有楽、小堀遠州、片桐石州、松平不昧、皆、大名で、生活は安定しています。そして、千家も、藪内家も、山田宗徧も、三谷宗鎮も、速水宗達も、川上不白でも、名だたる茶人は、皆、大名や寺院に茶道役として召し抱えられ、基本給がしっかりあり、以外の茶の湯収入は余得とも言えます。将軍に召し抱えられた数奇屋坊主の茶人もしかりです。藤村庸軒や杉木普斎など、大名に仕官しなくとも、別にちゃんとした生業があり、江戸時代後半、18世紀後半以降の、一般階級が茶の湯に親しみ出した時代以降、スポンサーがなく、茶の湯だけを生業とする街の茶人も、僅かに表れますが、むしろそれは特殊で、趣味で道を極める数奇者茶人の方が、ずっと多かったと思います。有名な茶人で、スポンサーがなく、つまり仕官せずに茶の湯に生きたのは、利休の孫の千宗旦だけではないでしょうか。だから、宗旦は、「乞食宗旦」と綽名されるほど、貧乏であり、生活が苦しかった。つまり、江戸時代前期は、茶の湯だけで食えることは容易ではなかったという時代だったわけです。

  萍亭主