何か節分の茶の湯について書いたものはなかったか、いい加減に探したら、松尾流十代家元不染斎宗吾宗匠の書いたものを見つけました。もう六十年以上前の記述ですが。
当時の家元たちが分担して、十二ヶ月それぞれの趣向の茶を説いている中で、二月の分を、節分の茶の湯として、述べられています。松尾家の祖、物斎宗ニは、千宗旦の弟子で、宗旦四天王の一人に数えられもしますが、この人が宗旦から自筆の和歌の軸を貰い、それを節分の日に掛けるのが恒例になったということです。和歌は「七十路に四とし余れる年波のよるより早き今日のくれかな」で、ちょっと節分との関わりが直接的でないような気もしますが、ともかく、代々、毎年変わらず、これを掛けるそうです。花入は「鬼の腕」という銘の竹花入(江岑宗左作、原叟宗左箱)で、釜には道也の広口大霰(大霰は鬼霰と呼ぶこともあります)を使い、水指は、丹波焼で、丹波国大江山の酒呑童子にちなんで「鬼の子」という銘、松尾流六代の仰止斎の付けたもの。棗は、豊臣秀吉誕生地の柊をもって仰止斎が好んだ品、柊も節分には鰯の頭と共に必要なものです。茶杓は裏千家の認得斎から五代不俊斎に贈られた「厄払い」と書き付けのもの。茶碗は、黒釉と白釉の掛け分けになった楽茶碗で、春と冬の分けをイメージしたもの。菓子が松尾流に伝わる珍菓で「蒸卵」という陶磁製の小吸物碗で蒸し上げた熱々の品で、卵を使うわけではなく、こし餡と葛、小麦粉で作るそうです。干菓子は台所で使う枡に、紙を敷き、飛騨高山の三島豆を盛ったとあります。全体的に、解りやすい趣向で、解りやす過ぎる気もしますが、大勢の客を招くらしいし、平易さも大切なのでしょう。私が、おやと思ったのは、香合が伏見焼の土蔵で、「土蔵の豆まきから連想して用いている」と、述べられていることです。前にも書きましたが、(昨年1月15日のブログ)、私には、この「土蔵の豆まき」という風習が、よくわからないのです。何かの説話に「節分の夜、鬼は豆を避けて土蔵に逃げ込む」というのがあったような気がしますが、それと関係あるのか、上方や中京では、今もこの風習があるのか、ご存じの方は是非、ご教示下さい。
それと、松尾流は現在、家元が12代目で、中京を代表する流儀ですが、昨年あたりから、流儀のホームページが閉鎖され、見ることが出来なくなりました。風の噂では何だか、きな臭い話も一つ二つ耳にしたので、心配しています。情報通の方は、どうぞお教え下さい。
萍亭主