茶室というものは、案外、引っ越しをするものです。
古い茶室で、「元は何々邸にあった」とかいうのは、よく聞く話です。統計を取ったことはないので判りませんが、かなりの数の茶室が、移転の歴史を持っていると思います。それも、一回や二回ではなく、三回なんてのも珍しくありません。京都などで、書院や方丈などの大きな建物が、以前は聚楽第にあったとか、誰それの伏見屋敷にあったなどの伝承も、よくありますから、そういう大きな建物に比べれば、茶室、ことに草庵は、運びやすいものなのかも知れません。ついでですが、よくあるのは門の移転で、昔の城門や、御殿の門が明治維新後に払い下げられて、民家の門になり、その地方の文化財になっているなんて例はよくあります。ただ、門の場合は、廃物利用的な面が、わりとあるような気もしますが、茶室の場合は、先人の残した文化遺産を受け継ぎたいという欲求が強いと思います。茶室の移転も、明治維新後に多いことも確かですが、江戸時代でも結構行われていて、それも、かなりの距離の場合の例もあります。京都・奈良から東京へというような長距離移転は、社会環境や運送事情の影響もあり、流石に明治以後のようですけれども。
先日、ご厄介になった鎌倉東慶寺の寒雲亭は、京都の裏千家から、明治初期に東京の久松伯爵邸に、次の移転した年は、私にはよくわからないのですが、鎌倉材木座の堀越宗円宅に、そして戦後の昭和35年に東慶寺へと、三度引っ越しているわけで、回数としては、国宝の茶室如庵も同じです。如庵は、織田有楽が、大坂の夏の陣の後、隠棲して3年後に、京都建仁寺の塔頭、正伝庵に建てたものですが、明治維新後、寺が付近の別の塔頭跡に移転することになり、祇園町に払い下げられたといいます。この時は、寺の旧地に存在して移動はしなかったようですが、明治41年、三井本家に売却され、はるばる東京まで運ばれました。この時は、京の数寄屋大工の手で、解体せずに東海道を荷車で運んだといいますが、どんなやり方の感じか、ちょっと想像もつきません。昭和13年、大磯の別邸に移転、この時は、解体移転だったのでしょうか。更に昭和47年、名鉄に買収されて、犬山まで移転しますが、これは国宝に指定されてから21年後のことですから、国宝建造物の引越しという前代未聞の大事業だったわけです。
ふと考えても、文化財クラスの移転も結構あるわけで、東京都の有形文化財の三茶室、あれは皆、文化財になったのは移転技のことですけれど、三つとも引越しの履歴を持っています。池之端江戸千家の一円庵は、関宿藩主久世家の下屋敷にあったのを移転したという伝承があり、千駄木武者小路東京道場の半床庵(天の川席)は、名古屋にあったのを明治末年に駒込の久米邸に移築、更に現在地に移ったものです。浅草寺伝法院内の天祐庵は、天明年間、名古屋で建てられ、大正年間に向島の水戸徳川家別邸に移築、嬉森庵と名付けられましたが、関東大震災直前に目黒の津村邸に移され、焼失を免れたので、天佑庵と名付けられました。昭和33年、現在地に移っています。こういった例を見ても、茶室の引っ越しは、珍しくないというか、ごく普通のこととも言えます。続きは次回に。
萍亭主