近代の数寄者の茶の湯を支えた、茶道具商の力は、大きかったと思います。
茶道具商は数寄者のお出入りであり、数寄者は茶道具商の顧客、お得意様として、その身分格差は当然あったわけですが、別の面では、指南役、参謀役、何より蒐集の実行部隊としての役割は大きかったわけです。前にも書きましたが(当ブログ今年10月1日)、野崎幻庵や高橋箒庵の記録を読むと、茶の湯専門の宗匠の茶事は馬鹿にしているのに、山澄宗澄、戸田露朝、梅澤鶴叟、林楽庵、土橋無声庵、服部春翠、中村好古堂、吉田梅露、横山雲泉など、各地の茶道具商の茶事に招かれた時には、喜んで出席し、それなりの敬意を込めた記事を残しています。彼等一流の茶道具商は、一級の茶人でもあり、何より、商売物の名器名品を並べ、道具に関する見識を持った会話の出来る、十分面白い相手だったのでしょう。考えてみれば、数寄者たちが、茶の湯の道に入った時、素人の彼等に、茶道具の知識を与え、入口の扉を開けたのは、手解きをした宗匠と、最初の品を納めた茶道具商だった筈です。更に、名物茶器とはどういうものか、名器の来歴や価値、現在の所在などの知識を与え解説出来たのは、まずは古い歴史を持つ茶道具商でした。道具組とはこうするもんですという基礎知識も、茶道具商が教え込んだ筈です。やがて数奇者たちは、その個性と発想で従来の茶の湯の世界になかった、仏教美術系とか、東洋考古学系、平安鎌倉の美術系などを取り入れた茶の湯世界を作って行く。後発の数寄者は、先輩の益田鈍翁などの感化を受けて、その茶風に従って茶の湯の道を歩いて行ったのでしょうが、それでも先達の他に、実際に道具を斡旋してくれる参謀役の茶道具商の力は必須だったでしょう。当時の茶道具商の権威はなかなかのもので、顧客が「あの道具を買いたい」と望んでも、「あの品は、お宅様向きでは御座いません」とか「ああいう物をお持ちになってはいけません」とか阻止するような力があり、その見識には顧客も従わざるをえない面がありました。ということは、益田鈍翁などのような、一流の数寄者はともあれ、当時の多くの凡百の数寄者の茶風は、結局、道具商達の茶風、美意識に支配されていたと言えるのではないでしょうか。私の勝手な考えなので、近代茶道史を研究されている学者さん達は、何とおっしゃるかは判りませんが。
現代、家元中心に大衆化が進んだ茶の湯の世界で、一流道具商は表舞台に立つ機会は、さほど多くはないかと思いますが、でも、光悦会、大師会、明治村茶会など、名だたる茶会では、東京、京都、名古屋、金沢、大阪の道具商組合が席持ちをし、一流道具商が、個人で、有名茶会の席主をする例も多いように、私の接触のない茶の湯の世界では、いろいろと力を発揮して、影響力を保っているだろうと思います。
萍亭主