茶道具との向き合い方は、茶人それぞれでしょう。

 道具好き、或いは道具持ちと呼ばれる人達でも、いろいろ差はあるようです。道具をいろいろな種類、沢山の数を蒐集しても、蔵に仕舞い込んで、一年に何度かの茶会に出す以外、見向きもしない人もあり、逆に茶会があろうとなかろうと、別に茶を飲むわけでなくとも、道具を取り出しては、ためつすがめつ眺めて、飽きずに鑑賞しているタイプもいます。私の母も、時々、茶を点てるでもなく、稽古をするでもなく、縁側に二、三点の茶碗を持ち出しては、弄っている事がありました。「嫌な事があっても、茶碗を眺めていると忘れる」と言っていたように思います。勿論、名器というような茶碗でもなく、さりとて稽古茶碗でもありませんでしたが。

 道具を数沢山持つのではなく、何か一点だけを秘蔵し、それを生涯傍に置くというタイプもあります。生涯、愛した一つの茶碗だけで茶を点てたとか、零落しても秘蔵の茶入を首から掛けて肌身離さず大切に過ごしたというような逸話もありますし、落語で、乞食になっても砂張の建水だけは手放さなかったというのもありました。松永久秀が、織田信長に奪われるよりはと、平蜘蛛の釜を砕いたのも、道具への執着と言えましょう。そういう名器に対する執着ではなく、なんであれ、道具を買い込んだら絶対手放さず、生涯持ち続けるというタイプと、道具は、飽きたら又は必要に応じて、手放し、買い換えてゆくというタイプとあるようです。後者は、前者と同じに道具愛に変わりはないものの、巡り会ったものに何時迄も執着せず、新しい愛を求めるタイプとでも言えますか。何年か前、ある雑誌に、某先生が、毎月、ご自分が催された茶事の記事を書かれていて、結構な名品が毎回使われるので、そんなに収入のある方なのかと、失礼ながら思ったのですが、事情通から「あの先生は、しょっちゅう道具を売ったり買ったりなさってるらしいですよ」と教えられました。もっとも、このやり方、私見では、かなりの一級の品で行わないと無理だろうと思います。並の品や新道具屋で買った新物じゃ、売ろうとしても、まず売れないか、バカ安の値段になり回転資金にもならない。超一級品は、道具屋もちゃんと買い、場合によっては、買った時よりも高音がつく(ここ十年来の茶道具の暴落ぶりでは、そうそう旨くは行かないでしょうが)時もある。実は、道具収集を競った近代の数寄者達も、高橋箒庵はじめ、結構大勢が、道具を集め、又それを手放し、次の物を手に入れるということを、沢山やっています。次回はそんな噺でも。

  萍亭主