道具組の話の続きですが、道具組のパターン化の原因の一つに、流儀の存在があるのも確かだと思います。

 随分昔ですが、表千家の先生が「表千家の人のお茶会は、みんな同じでつまんない」と言われたことがありました。かなり偉い先生の発言だったので、びっくりしたんですが、要するに、千家十職の道具中心に道具組をし、自然、同じようになる、変化がないということをおっしゃりたかったらしいのです。確かに、会記を読むと、表千家の同門会だけでなく、裏千家の淡交会だの、各流儀の代表的な会の茶会だと、似たようなテーストであると感じることがあります。家元の箱書付きの道具で溢れて、家元の好み物以外を見出すのは難しいというような道具組、これは、その流儀の代表的な会であるほど、その傾向が強い。考えてみれば無理もないことで、流儀の独自性は点前が大きな部分を占めますが、道具もある部分を占めているので、その流儀を代表する会となれば、流儀の個性を発揮しようと意気込むのも当然のことで、パターン的な道具組になるのも当然ともいえます。噂に聞いたところでは、(本当かどうか責任は持ちませんが)、そういう代表的な会での掛け釜の場合、事前に道具組に、上層部からチェックが入って、適当でないと判断される道具は変更を命じられるとか聞きますから、一層パターン化するのも無理はないでしょう。しかし、一般的な会や、地域の文化祭のような茶会でも、流儀に縛られている、パターンな道具組の茶会が多いように思います。別に、それが悪いとかいうわけではありませんし、家元側から見れば、流儀らしい茶をやって貰わねば困るでしょう。流儀を学ぶ以上、その流儀の茶風に沿う道具組をするのも当たり前かもしれません。しかし、そこに席主の個性なり工夫なりが全く感じられないのも淋しいものです。

 各流入れ込みの大寄せの折に、まず自分の流儀の席から入ろうとする人と、他流の、それもあまり知らない珍しい流儀の席から入ろうとする人といます。前者は、何となく勝手知った雰囲気の方が居心地がいいと考えるタイプでで、後者は好奇心旺盛で、変化を求めるタイプなのでしょうが、道具組にパターン化を感じる人は、後者タイプに多いのでは、と感じます。ともあれ、流儀らしい道具組というのは、掛軸なり茶杓なりに、家元系のものがあったり、その流儀独自の棚を使えば、途端にどの流儀かは判るわけで、あとは自由に個性も出せそうにも思うのですが。まあ、流儀の縛りというのは、茶人は無意識に考えるもので、我が家でも、外で妻が席主で釜を掛けたりすると、多少は流儀っぽさを出さないといけないかなどと、ちょっと考えたりしたものです。やはり、知人を招き自宅でやる茶会(茶事)が、気が楽というか、縛られ感が無い。こういう考えに同感の方が、どの程度居られるか判りませんけれど。

 道具組に関しての話、もう少し続けたいのですが、明日から所用があり、三日ほどブログを休みます。

  萍亭主