やっと緊急事態宣言が解除されましたが、果たして、茶の湯の復活はあるのか?それはさておき、前回に続き、何故、幻庵たち数寄者が、宗匠の茶を嫌ったのか、考えてみます。

 一つは、それはやはり、道具が面白くないということでしょう。どうしても、流儀関係の道具でやろうとする宗匠の茶は、流儀に囚われず、名物を自在に使う数寄者から見れば、チープに見えたのかも知れません。数寄者の中でも、流儀の点前や茶風をきちんと学んでいる人もあるのですが(中京、関西の方が多かったかも知れませんが)、それでも、道具は流儀に拘らない場合が多く、新物(あらもの)などは使いません。幻庵だけでなく、高橋箒庵も、大久保北隠(江戸千家流の宗匠)の喜寿の茶会に招かれた時、幻庵よりは愛想良く「めでたい茶会」と書いていますが、それでも「めでたき茶事につき、その道具組の巧拙精粗を論ずるは余の好まざるところなり」と、やんわり、大したもんじゃない、と暗に指しています。でも茶の湯は道具ばかりじゃない、露地や茶室の風情、亭主のもてなし方、趣向などもあるはずです。侘び茶好きを標榜する人が多い数寄者たちが何にも感じないのでしょうか。

 私は、どうも、根本には、数寄者の宗匠連に対する差別感が根底にあったのだろうと思います。当時の宗匠たちは、数寄者の水屋に入ったり、代点をしたりと、出入りの使用人風になっていた面があります。茶坊主、幇間のような茶人という江戸時代のイメージも広がっていたと思いますし、富豪の数寄者から見れば、お出入りの一人という感じでしょう。大阪の藤田家の茶会など、三千家や藪内の家元が水屋に奉仕するくらいです。権威は数寄者の方にあった時代とも言えます。それにこの時期、東京には有力な権威ある家元は誰もいませんし、毅然とした宗匠も少なかったのです。だいたい宗匠は流儀の法を守るのが役目ですから、どうしても型、順序、慣習などにやかましい。それは、自由な発想を妨げ、紋切り型になることもあったでしょう。しかも数寄者の方は点前などに重きを置かないとなると、宗匠を師と仰ぐ精神は生じにくい。宗匠の露地や茶室も、数奇者たちの作り上げた侘びから見れば、貧弱だったでしょうし、それに何より、茶会での会話なども、数寄者同士なら、階層が同じ実業家として、共通の、仲間内だけの面白い話題が尽きず、幻庵の記録を見ても、それを楽しんでいる様子が、しばしば窺えますが、宗匠相手では生活環境の違いから、そうもいかない。共通の話題としては茶の湯そのものがある筈ですが、これまた、その方向性の相違(興味を持つ事柄の違い)から、なかなか噛み合わなかったのでは。溝は埋まらなかったと思うのです。ところが、同じ身分違いの、いわゆる出入りの人間である茶道具商の茶事には、数寄者たちはしばしば招かれ、幻庵も箒庵も、かなりの興味と尊敬を持って、これを記録しています。この差は何なのか、いずれ改めて考えてみたいと思いますが、今日は、この辺で。

    萍亭主