先回の続きですが、「風流記事」の中の柴田桂作老と鈴木皓詞氏の対談の中で、こんな一節があります。
石黒忠悳こと况翁に関することで、柴田老人の言では「石黒况翁という方は、お金がありさえすれば、鈍翁に対抗できるほどの実力のあった東京の茶人です。鈍翁が東の大関なら、石黒さんは西の大関ということになりますか。目も利いたし、お茶も深い」ということなんですね。そして、况翁と小松宮彰仁親王との逸話について話が及びます。小松宮は、伏見宮家の出で、幕末までは僧籍にあり、仁和寺宮と呼ばれました。明治維新で復飾し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督になり、その後は陸軍に在籍して、参謀総長、征清総督など、数々の要職を務め、最初の元帥の一人となりました。日本赤十字社の初代総裁にもなっています。英国国王の戴冠式には明治天皇の名代として出席するなど、天皇の信頼が厚く、明治36年に死去した時は国葬になりました。当時の皇族の中では、一番といってもよい茶の湯好きの人でした。少し長いですが、対談の文章を引用させていただきます。
『この石黒さんの茶室を半円庵といってね。小松宮様がお前はうちにばかりお茶に来ているが、たまには自分を呼んでくれといわれて、のっぴきならなくなり、部屋を茶席に直して宮様をお呼びしたら、たいそうお喜びになられたわけなんです。そこで石黒さんは、その席に庵号をつけていただきたいとお願いしたのです。なんとつけたらよいのかと聞かれて、それでは「半円庵」とつけていただきたいと申し上げた。それで「半円庵」と御染筆いただいたわけなんだけれども、回りの人達は「一人前でない、半人前でございます」ということで、遠慮して「半円庵」とつけていただいたのでしょうと聞いたら「そうじゃないんだ、私がそのとき使った道具は、みんな五十銭程度の安物ばかりだった。そこで一円の半分だから、半円庵とつけてくださいとお願いしたのだ」と答えられたという話が伝わっています』
柴田老人の話は、石黒况翁が、こういうことをしている時期に、益田鈍翁は、もう何百円もする道具を買い求めていたという話に繋がって行くのですが、この話、初めて読まれる方は、面白いと思われるでしょうが、私「えっ」と思いました。この話は、事実と全く異なり、間違っています。私でなくとも、高橋箒庵の「東都茶会記」を先に読んでいる人なら「あれ?」と気がつくでしょう。どういうことかというと、説明が長くなりそうなので、続きは次回に。
萍亭主