九代目市川團十郎の話が出たついでですが、歌舞伎役者と茶の湯の関係はどんなもんでしょうか。
私は歌舞伎にそれほど詳しくもないので、あまり、大きなことは言えませんが、江戸時代は、歌舞伎役者は、大抵は茶の湯を知っていたろうと考えています。何故なら、歌舞伎役者は、ほとんど全員が俳号を持っています。例えば、市川團十郎家は、代々、柏筵、白猿、三升、五粒などを使っていますが、これは、俳諧に使う名前ということ。誰もが、一応、俳諧をやったわけで、金持のご贔屓筋との交際上や、人気者として、風流人と見られた方がいいイメージからも、これは必要な趣味でした。そして、何度も書きましたが、江戸人の高級趣味としては、俳諧と並び称されるのが茶の湯で、歌舞伎役者も、教養程度であれ、一応の茶の湯の心得は皆あったろうと思います。際立ったエピソードは思い浮かびませんが、技芸の上からも茶の湯は必要だったのだろうと。
近代では、初代中村吉右衛門が俳句と共に、茶の湯が好きだったようで、自分の俳句を絵付けした茶碗や、得意演目の「高時」を上演した時、記念に好んだ棗などを見た事があります。
戦前の大名優、五代目中村歌右衛門が、京都南座で「茨木」を演じた折、京都の贔屓の数寄者たちが「茨木」を趣向にして、歌右衛門を招いた。勿論、何の趣向か歌右衛門には知らせずに呼んだわけですが、歌右衛門は、席入りの時から、茶会のテーマを悟って、見事な客ぶりを見せたという話を読んだ事があります。
七代目の市村羽左衛門が、手造りした黒楽茶碗で、羽衣という銘をつけたものを、東京美術倶楽部の正札市で見た事があります。私は見ていないのですが、この人は、昭和50年頃に、新作歌舞伎で、小堀遠州の役を演じたそうで、そんな縁で茶の湯にも詳しかったのでしょうか。茶碗は素人らしく、やや手重かったことを覚えています。正札市では、六代目尾上菊五郎が自分の俳句を、いかにも洒落た軸装の茶掛にし、寄付きに最適というのを見ましたが、吉右衛門や羽左衛門の茶碗同様、私が手が出る値ではありませんでした。
河豚中毒で急死して世間を騒がせた八代目坂東三津五郎(近年若死した十代目や池上季実子の祖父ですね)は、骨董収集で非常に有名で、茶の湯も裏千家と親しく、食通、趣味人として知られました。三津五郎が京の骨董屋で名碗「遊撃半使」を手に入れ、帰途に出会った竹芸家の先代池田瓢阿を宿に同行し、楽しそうに茶碗を見せながら、滔々と蘊蓄を傾けたと瓢阿が記録しています。三津五郎の削った茶杓があるということを聞いた事がありますが、真偽を確かめられていません。
現代の役者では、十三代團十郎襲名予定の市川海老蔵が、映画「利休に尋ねよ」で千利休を演じた縁もあって、茶の湯をするという噂や、四代目市川猿之助は、なかなかの骨董通という噂も聞きますが、この辺は、今の歌舞伎通、ファンの方の方がよくご存知でしょう。無駄話はこの辺で、いずれ又。
萍亭主