することもなく、大相撲中継を観ていて、ふと思い出しました。
行司の式守伊之助をご存知でしょうか?行司の中で一番偉い身分の立行司で、本場所で最後の二番だけ(今は)を審判します。本来は、もう一つ格上の木村庄之助という立行司が居て、最後の一番を勤め、伊之助は、その前を審判するのですが、現在は、庄之助が空位なので、こんな状態になっています。今の伊之助は四十何代かですが、初代式守伊之助は、明和から寛政(1763〜1800)にかけて行司を勤めた人です。行司の名前は、芸名のようなもので、次々といろいろな名を襲名して出世して行く。行司の姓は木村と式守しかなく、明治までは、木村派と式守派は分かれていたそうですが、大正以降、木村から式守になったり、その逆もあったりで、名前は変わって行きます。勿論、血縁は関係なく、師弟の関係も特にあるわけでもなく、大相撲協会の指名によって、出世、改名するわけです。
さて、初代伊之助は、一代で地位を築いた傑物で、引退後には、式守蝸牛(かぎゅう)と名乗り「相撲隠雲解」という相撲の手引書を書くなどしました。子孫は、相撲膏という、膏薬を製造することを業としました。これは打ち身、捻挫、腰痛などに効く湿布薬で、江戸では有名でした。今でもチラシが残っていて、中央に「本家相撲赤膏薬」と書かれ、左右に「鞍馬山鬼一法眼伝来」「両国元町大徳院門前角 式守蝸牛」とあって、カタツムリの絵が名前の下にあります。値段は大包が百文、小包が八文、江戸時代の文芸作品にも登場するくらいポピュラーでした。ここまでは、相撲好き、江戸時代好きの人は、よくご存知でしょう。そして、茶の湯と何の関係が?とおっしゃるでしょうが、実は、この家から、幕末明治になって、茶人が出たのです。
まず、蘿装庵と名乗り、不争と号した幕末期の当主が、江戸千家系の川上宗寿に学び、茶人として認められていました。川上宗寿は、当ブログ、去年の4月7日の「落語大仏餅」でもご紹介した、今の表千家不白流の四代家元仙渓宗寿、幕末期の有力宗匠です。この不争も、家名の蝸牛の方も名乗った筈ですが、息子が蝸牛の号で茶人として有名になったためか、茶の湯の方では不争で呼ばれます。不争は明治32年に死にました。明治8年生まれの息子は、茶の湯を父にも学び、仙渓宗寿の跡を継いだ川上宗順(浜町の江戸千家と呼ばれた)にも師事し、大久保北隠(仙渓宗寿の弟子とも岐部千山の弟子とも)にも学んだと言います。要するに江戸千家系列ですが、本人は「表千家の皆伝を得ている」と言っていたそうです。蝸牛の名を表看板にしましたが、五楓の号も用い、また庵号は父と同じ蘿装庵を名乗りました。茶の湯の他に、御家流の香道に精通、家元格と言われたそうです。大変な趣味人で、謡曲に造詣が深く、渋い一中節も得意で、俳諧もすれば、絵も描くという、まさに江戸趣味の集大成という感じの人間でした。師匠の北隠や宗順のひきもあったでしょうが、財界の数寄者茶人とも交際があり、財界茶人の弟子として、三共製薬(現第一三共)の創業者、塩原禾日庵(又策)、服部時計店でセイコーブランドを確立した服部山楓(正次)を持ちました。蝸牛は、稽古にやかましいので弟子が少ない(皆、逃げ出す)と「明治世相百話」に書かれていますが、この二人は生涯の弟子であり、後援者でした。そして、松永耳庵(安左衛門)も師弟の関係はありませんが親交がありました。
長くなったので、続きは次回に。
萍亭主