振り返ってみると、一昨年の今日は、世紀の十連休の開始日で、令和が始まる改元直前で、世の中がウキウキしている頃でした。皆さん、お出かけなどで忙しく、ブログを見てくれる暇もなかろうと、当ブログもずっと休んだものです。去年はというと、やはり緊急事態宣言の中で、まあ皆様ご在宅でお暇かと、休まず駄文を綴ったものですが、今年もまたもや緊急事態宣言、駄文を書く方も読まれる方もお疲れなんじゃと感じざるを得ません。
気を取り直して、さて、前回、利休の時代の懐石には、味噌汁はつかなかったんじゃないかという推論を申し上げました。利休の死後、半世紀以上経った頃、曾孫の江岑宗左の残した他会記(客に招かれた記録)でも、どうも味噌汁は出てきません。覚書ですから「利休百会記」より、更にメモ風といえばそうなので、例えば「利休百会記」には必ず記載されている「めし(飯)」の記述が全くありません。出ないはずはないので、単に省略したのだと思います。味噌汁も必ず出たから省略したんだともいえますが、飯はまず定番ですが、味噌汁は具によって、相当違いはあり、珍しい具なら、記録しそうだと思うし、その気配がないのは、この頃には、やはり出す習慣がなかったのではと思いたい。ちなみに「利休百会記」が必ず書く菓子も、特別な場合、例えば当時珍しい羊羹が出たとか、飯後の茶事で菓子がメインの時とかだけにに記載があり香の物もたまに記載があるだけです。本来メモですから、略記が多いのは当然で、ことに懐石の所は、それが目立ちます。私の多少の誤読はあるかも知れませんがそれはご承知おきください。何しろ30年弱にわたる期間の、招かれる相手も大名から侘茶人まで幅広く、従って、懐石の内容も一汁三菜が多いものの食材や調理はバラバラで、要するに、この時代は、まだ今ほど懐石の形式は定型がなく、進行も含め、かなり自由だったのだろうと思います。ためしにアットランダムに、万治2年(1659)4月の茶会を見ると、20日に兄の宗守に招かれた時は、鯉の汁、筍のあえ物、魚の干物の一汁ニ菜、22日の瀬尾次兵衛の会では、鮎の鱠、鴨の汁、鰈の干物の焼物、筍といりこの煮物、蒲鉾、そして田螺と茗荷の吸物まで出されています。この吸物というのは利休時代には出て来ない、今の小吸物とは違うでしょうが、汁以外に登場して来るわけです。24日の本阿弥光益では、あえ物と野菜種々入れたざくざく汁の後、田楽豆腐と筍羹と油麩の煮物、そして「すまし」と書いて、松茸、麩、筍が入った吸物が出ています。25日の武田道安の会でも、鯛の鱠、鶏、椎茸、竹の子の汁、きすの干物の焼物、鮎鮨、そして雁の塩味の吸物が出ています。長くなるので略しますが、この後、5月の茶会でも、マテ貝の清汁とか、鶏のすましとか出てきますし、中身は分かりませんが、ただ吸物という表記も結構あります。承応・万治(1655〜60)の頃は、懐石に、汁とは別に吸物も出す頻度が増えているようです。続きはまた次回。
萍亭主