前回の続きですが、江戸第一の料亭だった八百善を調べてみると、こうなります。
八百善自身の記録に従えば、神田で八百屋を営んでいたのが、明暦の大火(1657)
で、浅草新鳥越に移り、二代目から料理屋を始めた。その創業が八代将軍吉宗の時代の享保2年(1717)だというから、古い話です。商売は順調で、二代目の晩年には、既に年商が二千両近くになり、三代目の頃には権力者田沼意次から注文を受けるなど、着実な経営でしたが、一挙に名声が上がったのは文化2年(1805)に家督を継いだ四代目善四郎の時です。この人は、各地に旅行して料理の研究もし、「江戸流行料理通」というレシピ本を四度に渡り出版、種々のイベントを企画したりして人気となり、年商も二千五百両に達するほどになります。当時の一流名士、文化人に愛好され、中でも蜀山人が詠んだ狂歌「詩は五山役者は杜若(とじゃく)傾はかの芸者はおかつ料理八百善」は、人口に膾炙しました。ついでですが、この狂歌は「詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百善」というパターンでも伝わりますが、前者が真蹟が残っている様です。更についでですが、「役者は杜若」は、五代目岩井半四郎、「傾はかの」は、傾城(遊女)は彼女、あいつがいいというようなことでしょう。
文政10年(1827)には、十一代将軍家斉が八百善の真崎の別荘に来て料理を楽しみます。十二代将軍家慶も将軍就任前の天保7年(1836)から、何度も店に来訪しました。当時、将軍家が民間の家(それも料理屋)へ御成になることなど、物凄く異例な事で、八百善の名声が異常だというのがわかります。天保の改革で、贅沢禁止令に触れ閉店、仕出し料理で食いつなぎますが、2年ほどで、改革解除で復活、ペリー来日の時の饗応料理を請け負うなどし、1855年の安政大地震で店を失いますが、すぐ再建、明治維新後も、新政府の要人や新興財閥の支持も得て、明治4年には年商が四千五百両を越えるほどでした。前回書いたように、七代目、八代目と茶人が続き、財界数寄者に愛好され茶の湯の世界でも確固たる地位を築きます。大正大震災で、長年の本拠地浅草山谷を離れ、昭和2年から築地に移りますが、名声は衰えませんでした。しかし、昭和18年第二次大戦の激化で閉店、店も空襲で焼け、ここから八百善の苦闘が始まります。
八代目は隠居し九代目が、ようやく昭和27年に永田町に店を再開しますが、経営は苦しく36年には閉店、この辺の事情は、宮尾登美子氏が小説「菊亭八百善の人びと」に活写しているのでご存知の方も多いでしょう。社会情勢の変化により、従来の顧客層の衰退、粋を尊ぶ接客習慣の変貌、何より、上方割烹の進出で、江戸前の味が好まれなくなって来たのが要因のようです。その後、16年を経て、十代目が昭和52年、青山で再開、4年後には銀座へ移りますが、経営は苦しかったようです。平成8年、江戸東京博物館の食堂として出店、前後して銀座の店は閉めて、本格的な店は無くなりました。平成10年、開店2年後の新宿高島屋の食堂フロアにも出店しますが、江戸東京博物館からは平成13年に撤退、高島屋店も15年に閉店して、遂に東京から離れました。その後、平成22年に通信販売を主とする会社を開き、鎌倉に予約制のランチだけの店を開き、料理指導のイベントなども行われているようです。
さて、本題に入る前に、八百善の歴史だけで長くなりました。すみません、続きは次回に。
萍亭主