先回の続きですが、新編茶道大辞典で「長炉」の項を見ると、こうあります。 

 「ほとんどは水屋用であり、控え釜を掛けたり、懐石の煮炊きなどに用いられる。茶堂式の茶室でこれを用いたものがあり、畳幅いっぱいに点前座向うに設けられ、二分して、一方に釜を掛け、他方に道具炭などを組み込んでいる」とあります。茶堂式って何?と、索引してみると、茶堂とは「九州、四国、中国地方の茶産地の街道などに設けられた小堂。仏前に茶を供え、道ゆく人にも茶が振舞われる」とあります。中世以来の宗教行為の茶接待と見られているそうで、これも私は実見した事がないのですが、要するに茶堂式とは、正規の茶室でなく、田舎家風のくだけた茶室を指すらしい。先回の白雲洞もまさに田舎家ですが、もうちょっと茶室らしい茶室に長炉が切られた例があります。

 大森に、古柱庵という茶室がありました。料亭八百善の八代目主人栗山善四郎が、別荘として建てた邸宅の一隅で、大正十四年に席披きをした記録が、高橋箒庵の大正茶道記にあります。古柱庵の名は、柱を全て古い社寺の古材で建てたのを、石黒况翁がこう命名したので、柱にはかなり虫食いの跡もあったそうです。席は二畳中板で(高橋箒庵は二畳半中板と書いているのですが、残っている見取図では二畳中板です)で、向切の長角石炉に、梯子段の古材で作った炉縁をはめ、右に寄せて芦屋釜、左に火箸などを飾ったと記録されます。炉の片隅に炭道具を入れるのは、大炉と同じですね。

 下は、古柱庵の点前座の写真です(「茶室」朝日新聞 昭和24年出版 所収)

 一尺を超える太い床柱は、目黒不動の山門古材で、床の間の落とし掛けは、法隆寺の古材、床板は平等院、躙口横の太い柱は祇園神社古材、その他全て奈良や各地の社寺の古材というこだわりで、躙口前は、瓦敷の土間になっており、躙口に並んで、厨子(仏壇)を設け、それこそ、古寺か茶堂のような雰囲気を出すのに一生懸命だったようです。あえて長炉にしたのも、大侘びの風情を出すためでしょう。亭主が茶堂からヒントを得たのかどうかはわかりませんが。この日の道具組も、濃茶入は棗を使い、薄茶の水指には薬缶を持ち出すなど、侘び一点ばりで、そういえば寄付も、先年の大震災で潰れた建長寺の古材を使い、丸炉も切ってあったといいます。

 この茶室が残っていれば、東京の名茶室の一つになっていたのでしょうが、昭和19年9月24日のの大空襲で焼失してしまいました。二十年の短い命の茶室だったわけで、今は、写真と解説が残るのみで、忘れられています。

 では、また。

 萍亭主