井上馨こと世外について、私は不思議に思っていることがあります。
「新編茶道大辞典」の井上世外の項を見ると「茶の湯は益田鈍翁らに誘われて始めた」という記述があります。これが、どうも気になるのです。私の知識など当てにはなりませんが、しかし、私の見た限り、世外より鈍翁の方が時間的に早く茶の湯を始めていたという資料は見当たりませんし、世外を茶の湯に誘い入れたという具体的な挿話も見当たりません。財界人を茶の湯に誘い入れた初期の原動力は、益田克徳だという説があり、三井系の財界人は、もともと本家の三井一族が、昔から、旦那芸として、表千家のスポンサーとして、茶の湯に親しんでいることが影響した、また益田鈍翁が、三井を引っ張るようになってから、その影響で茶の湯に親しむ者が増えたこともありますが、政財界の大御所の井上世外の嗜好が、その威光と、彼へのご機嫌取りも含めて、財界人を茶の湯に走らせた面もあるのではと思います。
井上世外が、多くの道具を収集するのに、かなり強引な手を使ったのは有名で、何でも呑み込んでしまうという意味か、大鰐という仇名もあり、道具持ちには恐れられました。見かけた道具を「貰っておく」というストレートな仕方から、多かったのが「ちょっと見せてくれ」と借りて返さない、相手の弱みを握って秘蔵の品を手放させるように持ってゆく、時には無断で茶会の席から持ち去ることまであったと言います。彼の還暦、喜寿、傘寿などの節目の祝の献上品や、折々の贈答でも、名器を得ることも多かったでしょう。
有名な逸話に、外務大臣当時、部下で某国公使を務める元大名華族が、帰国を願っても、井上が絶対許可しない、種々運動の末、家宝の牧谿の蕪を描いた双幅を泣く泣く献上し、やっと許しを得た。後年、井上が自邸に明治天皇を招いた時、何か一品献上したいと陪席の杉孫七郎子爵を通じて申し出、天皇が「何がよかろう」というと、杉が、八窓庵に掛けてあった、牧谿の軸を推薦、井上は「では一幅献上し、一幅は自分が所持しよう」と杉に答えたのですが、天皇は両方とも持って帰ってしまった。後で気が付いた井上は、天皇に一幅だけ戻して頂きたいと泣きついたが、天皇は「もともと二幅対のものは、あのままが良かろう」と笑って取り合わず、井上は泣き寝入り。これを聞いた、牧谿を取られた大名華族は「上には上がいる」と痛快がった、というのです。以上は白崎秀雄氏の「鈍翁・益田孝」に描いているのですが、説によっては、これは日頃の井上の強引な収集法を嗜めるための天皇の行為だともしますが、それはどんなもんでしょうか?「自叙益田孝翁伝」では、蕪の絵が双幅という記述は無く、華族から牧谿を取り上げた経緯を知っていた杉孫七郎が、これを天皇に勧めた(井上の鼻を明かすため)となっています。こういう茶の湯の逸話は、少しづつ相違しながら伝えられるものですね。
なんにしても、井上世外が収集した名器、三百五十点は、歿後、大正末年に養子勝之助が「趣味も生活も違うから」として、売り立てに出され、四散しました。売り立ての総額は二百三十万円(今の百六十億円くらい?)を超えました。しかし、茶道具が、その家に伝わるのは、難しいものです。
明日はブログを休みます。
萍亭主